ナミモト

ドライブ・マイ・カーのナミモトのレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.0
村上春樹作品は、アフターダーク以前のものはほぼ読んでいます。なかでも、初期の短編集が好きな方です。原作の「女のいない男たち」も10年以上前に、きっと読んでいたのだろうと思うのですが、当然、内容を覚えていることもなく、映画は、原作を忘れた状態で観ました。
キーワードとしては、音・声・言葉はかなり重要な要素だったな、と。濱口監督自身が大切に思っているポイントなんだろうな、と思いました。
ひとつのテクスト(脚本)の中のひとつのセンテンスを口に出して読む時に、思いがけず、その言葉が、自分の心の奥深くにある部分とシンクロしてしまう時があって、その瞬間に発せられる言葉の真実味…ということを感じさせるシーンが度々ありました。ほとんど独白に近いその言葉が、村上春樹作品との親和性が高く感じられました。
「寝ても 覚めても」も映画館で観ました。喪失を経験した人々の、生きているのに、まるでこの世から心だけが乖離してしまったかのように、何かを求めて移動する展開などは、本作でもそうだな、と感じました。

・家福 音の性行為を終えた後に生まれる物語は、まさに“生まれでるもの”としてあって、それはかつて失った子どもの命の代償ででもあるかのように、本人も意識していない層から紡ぎ出され、本人が気づかない本人のからだの暗闇のような場所で命を得る。それはまるで、精子が暗い産道の果てに行き着く子宮内で、卵子と出会うようなこととも近い。そうして、本人の意識の届かないところで密やかに起こる奇跡は、物語と形を変えて、家福 音の口から声となってこの世界に生まれ出る。そして、それを記録するのは、家福であり、あるいはその時に家福 音の創造行為に携わった男性だ。
そうすることでしか、あの時の家福 音はもう自分を保つことができなかったし、家福自身もきっと、そうして家福 音との関係を繋ぎ止めることを望んでいたのだ。そうすることを続けなければ、家福 音は消えてしまうから。
・家福 音が消えてしまった後から、この映画が始まることがすばらしい。まさに、路上に旅立つ。東京から広島へ。コロナ禍がなければ、韓国であったはずのその行き先は、広島であることによって、より死者の記憶と繋がるような感じもしました。平和記念公園からまっすぐにつながる先に、吹き抜けのある建築はゴミ処理施設でありましたが、燃え盛る火は、火葬の火とも重なり、それは死者が彼岸の世界へ帰るための線であり、その線上にまた彼らが生きていることを感じさせました。
・燃えて、焼却されるゴミがチリとなった光景を、舞う雪のようだと喩えた渡利 みさきは、あの光景にすでに北海道を重ねていたのですね。それは、自分が殺してしまったと自責している、母親の死んだ場所に降る雪であり、遺骨であるのかもしれません。
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