夢里村

ドライブ・マイ・カーの夢里村のレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
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(改行するまでは読む価値のないことを書いているので飛ばしてください)
当たり前のことを恥ずかしげもなく書くことにする。それが許されるような気がこの映画を観終わったあとにしたのもあるし、そうしたいと思ったからそうする。多くの映画研究者やライターがこの作品に対しての記事を書いているが、おそらくみんな気づいていることだ。わざわざ文字に起こそうとも思わなかったかもしれない。それでも書く。幸いまだこの作品に対する論考は、フィルマークスのレビュー以外目を通していないからこんなことができるのかもしれない。

言葉を、思いを伝えることの不可能性を抱えていくしかないというニヒリズムから、それを超越し伝わらないままでも伝えようと努力しながら他者と生きる希望へ。ぼくはそう受け取った。前者は停滞しか残さない。
なぜ多言語演劇なのか? 実際にそういう演劇や映画はあるが演劇においての功罪はここでは置くことにする。マルチリンガル(という設定)でない限り役者同士は意思の疎通ができない、にも拘わらずメタレベルで作品は問題なく進行する。映画の終盤を除いてこの構造は単に突飛なことをやっている滑稽さしか生んでいない。なぜなら「同言語でも言語ゲームが成り立っているだけで、本当の意思など伝わっちゃいない」という前述のニヒリズムを逆説的に暴いているかのようなアレゴリーにしかなっていないからだ。これは徹底して描かれていく。映画は霧島れいかが西島秀俊に、ある物語を語るシーンから始まる。どうやら無意識に発話しているようで物語の内容を霧島は記憶しておらず、西島は同じ内容を霧島に返してやる。物語るA'の霧島からBの西島を介しAである霧島への伝達、これは言語の交換とはいえないだろう。もちろん画面上でも会話の不可能性は示される。霧島がサーブ900を運転するシーンで、お互いが視線を結ぶことはなく、フレームは二人の確からしい交流を避け、言葉だけが空回りし続ける。西島は霧島に(こちらに目を向けず)前を向けとまで言う。車を運転している以上当たり前だが、明らかに意図されたディスコミュニケーションのための台詞である。さらに印象深いのは、霧島の戯曲の読み上げが吹き込まれたテープとそれに対応して戯曲の台詞を諳んじる西島の習慣だ。映画は、嫌らしいほどに西島と霧島との有機的な対話を拒ませる。
だがいつの間にか我々は気がつくだろう。伝えようとすること、その不能、他者との共生という困難さを抱きしめて歩んでいくことの尊さを。ぽつりぽつりの、言葉少なな車内を共有する西島と三浦透子の距離の詰まり方や(そして皮肉にも彼らが共鳴するのは、彼の妻や彼女の母親というお互いが知らない人物との記憶を話し合う、いかにも一方向的な内容によってである)、いくつものトンネルを抜け北へ向かうシークエンス、彼らの抱擁、西島のあからさまな慟哭。その到達点が、パク・ユリムのソーニャが雄弁としか言いようのないその手話/身体で、西島のワーニャに語りかけるあのシーンなのは間違いない。少なくともぼくは、なぜか、とても、その感動はしっくりきた。手話はわからない。字幕を読んでいたのは確かに大きい。だが、伝わらないのに、伝えたい、伝えようとする、これがあれば、他者と生きていけるかもしれない。シニフィエを超えて、我々は、この大いなる跳躍を希望にしていく。三浦透子がラストに犬とともにいるのがどういうことか、もう言葉はいらないだろう。

思えば、霧島の運転する車内で彼女と西島は手をしっかりと結び合っていたり、言葉少なだった西島と三浦がサンルーフからいっしょにたばこを出したり、意外とカメラは人の(身体的な)寄り添いをその車内に見つめていた。

言葉の空疎さを抱えて伝えきれないままに、それでも伝えようとしながら、他者と生きていくことはできる。
これは詭弁だろうか。しかし生きていかなければならないのは確かであり、これをひとつのよすがと発見せしめる確かな力がこの映画にはあるのだ。

追記
手話劇を映像にすること、これは物凄い発明ではないか? 字幕と役者の身体をほぼ同水準で観ることができる。映像演劇の一つの素晴らしい形になり得るだろう。
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