空海花

ドライブ・マイ・カーの空海花のレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.5
こんな映画が観たかった!
卒業制作作品『PASSION』を観て、ただならぬ才能を感じた濱口竜介監督。
カンヌ国際映画祭脚本賞、4冠。
気持ち的には3時間程度の上映時間に抵抗は感じないが、今回身体的にはかなり不安があった。
でも飛び込んで観て正解。
これは映画館で観るべき作品。
終始引き込まれ、あっという間の179分。
行間をそのまま日本語で読むという快感。

村上春樹はそこそこ読んでいるが
ハルキストというほどではない。
設定にらしさを感じるが
濱口監督らしさで膨らませた感覚が心地良い。
舞台の練習のシーンで、最初に感情を込めずに読み合わせをするのは濱口メソッドなんだそうで。
そうして役者は台詞を血肉にしていくのだと。
なるほどと思った。


長い序章。
影になる裸体が語り部になる。
窓の枠から空を見てそれを聴く。
最近の邦画はタイトルの出し方にこだわる。
その裸体は主人公家福の妻の音だ。
途中で“かふく”“おと”を漢字でどう書くか説明するシーンがある。
“かふく”は禍福を連想するし
妻が“音”である理由は言わずもがな
亡くなった後も車の中で繰り返し台詞を反復するカセットテープ。


ここからやや内容に触れてるかも⚠️
(この先もう1回ネタバレ注意線入れます😅)


セックスの後
いや正しく言えばオーガズムに入ると
彼女は物語を語り始める。
翌日には彼女は内容をけろっと忘れ
覚えている家福が彼女に話を聴かせ、彼女は脚本を完成させ、それで成功した。

夫婦は昔に幼い娘を亡くしている。
妻は2人目を欲しがらなかった。
女優をしていたが、落ち込み仕事を辞めてしまった。
代わりに妻は物語を生み出し始め
脚本家として新しい人生に踏み出した。

暗く重い話を思い浮かべるだろうが
赤いサーブ900ターボの走行は清々しく、
ロードムービーの中にある舞台劇のような言葉の洪水は快感そのもの。
この辺りスクリーンでないと開放感が半減し、しんどいような気がした。
チェーホフ「ワーニャ伯父さん」の台詞が家福の心情とシンクロしていく繊細な演出に感嘆する。

舞台演出の仕事の為、広島へ向かう景色には郷愁と優しさが溢れていた。
おだやかな山並みと瀬戸内海を海沿いに走るカーブやトンネル。
父方の実家が山口県の私は、夏休みには帰省していて、隣県のこんな道をよく通った。

そこで出会う運転手、三浦透子演じるみさき。
空気のようにカセットテープとの台詞のやりとりを聴き、物語全体の聞き手となる。
その一つでもある舞台劇は、複数の言語と韓国手話によって構成されるという趣向。
すべてを同じ感覚で受け止められたらどんなにいいかと思うが、(私は)海外文学は翻訳されたものを読むしかない。
翻訳が意訳や変に思うことは時にあっても、何となくの理解に任せて感じ取っていく。言葉なんて、不確かでまやかしのようなものだ。
それでも私は“言葉”というものが好きだ。時に暴力にもなったり、単なる記号になったり、たとえ信じるに値するものではなかろうと、正しい言葉は人が何かを表そうとする結晶のようなものだと思っている。
その言葉を、演じる動作と一度切り離し
再構築して融和させるこの劇中劇を登場させるこの作品は、それだけでも感謝で平伏したくなるほど言葉を扱った映画でもある。

韓国手話を扱う女優イ・ユナを演じるパク・ユリムの家での食事のシーン。
手話で音のない会話(訳してくれる声や家福の声はもちろんあるが)
犬との無言のコミュニケーション。
そこから、みさきが聞き手ではなく自分の言葉で話し始める。
言葉は少しずつだが物語は一気に加速する。この流れも鳥肌。
彼女は“空気のよう”だったが、ただ淡々と話を聴いていた訳ではない。
彼女の態度の豊かさにも注目してもらいたい。


未鑑賞の方は、この辺りでstop⚠️
ネタバレ含む勝手な感想ですが、今回いつもにまして長いです😅


2人のセックス後の作業。
このことは互いの仕事のパートナーとしての絆を深めることになった。
俳優で演出家の夫(ここでは演出家の面が強い)
俳優で今は脚本家の妻。
芸術家は仕事も愛も情感を動かすから
これは当然のことなのかもしれない。
だが、夫婦としては新たな悲劇の始まりだったのかも。
2人は互いに深く愛し合っていたことは間違いないと思う。
たとえ妻があんなことをしていても。
そこに寂しさや違和感を感じたのは妻が先だったということ。
「もっと正しく傷つくべきだった」のは
娘の喪失も同じだ。
その喪失を一緒に埋めたかったのはおそらく妻の方だった。
彼はきっと限りなく優しかっただろうが
例えば一緒に慟哭するような時間はなかったのではないだろうか。

映画の中で語られる音の物語。
あれはきっと彼女の物語。
彼は翌朝、覚えてないと嘘をついた。
物語はそこで終わり、語られることはなかった。
食べずに痩せ細る八目鰻は餓死するように力尽きたのか。
彼もしるしを残した。
扉に鍵をかけなかった。

イ・ユナが言う。
「言葉が伝わらないことは普通です」
彼女の喪失は手話でも何となくわかった。
彼女のエピソードも印象的。

物語の続きを知る岡田将生演じる高槻。
シーン毎に転じていく姿の彼とは喪った人が同じ。
やはりサーブの中で吐露する時、彼の輪郭が顕わになる。

家福とみさきの同じものは罪の意識。
2人の主観では自分が殺したも同じ。
喪失に重ねたものが同じ。
家福は真後ろから助手席へ移動する。
サンルーフの2本の煙草の煙は弔いの灯り。天を仰ぎ高く登る。
ちょっと昔には煙草好きの人には煙草を線香代わりにしたりした。
雪景色の無音の中、会話はきっとない。
車が引き返し、音が再開する。
花を買おうと言ったのかな。

巨大なゴミ処理焼却場で、
みさきはそれを「雪みたい」と言った。
あそこで建物の作りについて語られるところも良かった。欧米の人には神秘的に感じられるのではないか。
北海道でのシーン
雪の中で崩れて放置された家を見て
その台詞が思い出され涙が止まらなくなる。

「娘は生きていれば23歳」と聞いて
同い年のみさきが小さく反応する。
サーブの中で信頼を重ねた2人。
何かしらの喪失を抱えている人々はとても多い。自らの傷を癒すことは難しい。
前レビューでも同じことを書いたな。
だが、癒すことはできる。
癒すということは確かに信じて委ねることなのかもしれない。

舞台の準備作業や完成とも、彼らのストーリーはシンクロする。
最後には舞台の中のソーニャの手話が身体言語となりワーニャを演じる家福の躰の中に流れ込んでいく。
音のない言葉に昇華させたこの作品に
劇中の観客と一緒に盛大な拍手を送りたくなった。

もう妻の声は必要ない。
彼らの愛は確かにあったともう全身で信じることができるのだから
譲り受けたサーブで犬が待っている。
安堵に胸を撫で下ろす。

映像センス、音楽、脚本も抜群。
言葉を扱ったという好みと感謝加点はしたものの
村上春樹がちらつく。
やはりオリジナル脚本で観たいです。


妻が抱えた秘密は明かされないが
観客はそれぞれその秘密を解釈したのだろうな。


2021レビュー#154
2021鑑賞No.344/劇場鑑賞#55


【長いのに更に追記】
劇場は一席空きで80%くらいは埋まっているといった感じ。
気づかなかっただけかもしれないが、長尺なのに中座する人を1人も見なかった!
エンドロールに立つ人もなし。
何か感動した👏
※トイレを我慢することを推奨するものではありませんw

ネタバレコメントあり。
空海花

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