グラノーラ夜盗虫

ドライブ・マイ・カーのグラノーラ夜盗虫のレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
3.8
この映画の根幹となるテーマは、他者とのコミュニケーションと、人生に起きる悲劇との向き合い方。監督の主要なメッセージは、主に岡田将生演じる高槻耕史とワーニャ伯父さんの台詞によって語られているように思われる。
【他者とのコミュニケーション】
・他者を理解することはできないこと。
→”人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です””そんなことを求めても自分がせつなくなるだけです”
・ただ目を背けず、その真実に向き合う必要があること
→“真実はそれほど恐ろしくない。恐いのは、それをしらないことだ”
・まず自分の心を点検する必要があること。
→”自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことができるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか”
【悲劇との向き合い方】
・人生は不条理で苦しいものだが、それでもそれとして生き伸びていかなければいけないこと。
→”仕方ないわ。生きていかなくちゃ…。長い長い昼と夜をどこまでも生きていきましょう。そしていつかその時が来たら、おとなしく死んでいきましょう。”

ちなみに前半の台詞は、自身を”なにもない”と称し、言葉でなく暴力に訴えかけてしまう高槻耕史が語るとは考えづらい思想であって、おそらく音(もしくはこの映画における神=監督)のつむいだ言葉が高槻という空っぽな人形を通じて語られたのではないかと感じた。
個人的にはここまで登場人物を通じて明確に説明してくれるのは親切なるも、視聴者の理解力を信用していないようで少し好みとは遠いなと感じた点はメモしておく。

他者とのコミュニケーションの問題について模索する上では、多言語での演劇はもちろんだが、家福夫妻と対称におかれた韓国人夫妻が特に象徴的だ。家福夫妻は脚本家と劇作家として言語を巧みにあやつるも、自分と相手に向き合おうという決意の不足により、本質的な会話ができていていない。一方、後者は音声の言葉は通じないが、それを超えた信頼関係を構築し、結果として深いコミュニケーションができている。

なお、タイトルにある車は、家福の閉じこもった心のメタファーなのはあきらか。音の吹き込んだ声を繰り返し再生しながら車を走らせるが、これは家福が音の死を乗り越えられておらず、自分の世界に閉じこもっているところを指している。
だからこそ他者(みさき)にハンドルを握られたり、中年である家福にとって若さと性的な魅力の意味で脅威と思われる高槻が乗り込むことについて彼は躊躇する。しかし、この他者との交流によって彼は妻の死によって抱えた闇への癒しを手に入れ、この車を手放すに至る。

(つぶやき)
女性とセックスに神秘性や宗教性を見出そうとする傾向はあいかわらず村上春樹らしいな〜と思いました。普通そういうときにヤツメウナギの話をされたら吹き出すと思うんですが・・。