イホウジン

ドライブ・マイ・カーのイホウジンのレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.6
どんな災厄の後でも人は生きねばならない

どことなく監督の震災後の作品である、『ハッピーアワー』や『寝ても覚めても』に対する返答のようにも感じられる作品だ。この2作は、ある災いが発生するまでのプロセスを事細かに描き、その加害者側をめぐる環境の複雑さを生々しく表現した。確かにこれに着目した2作はとても面白く、しばしば過剰なまでにセンセーショナルに表現されがちな不倫という問題を、生活世界の中の必然として位置づけた。しかしながら、加害側への注力は、結果的に被害側の状況や、災いが起きたその後の世界の変化に対する言及を曖昧なものとしていた。故に今作の主人公である夫とその妻は、濱口監督の映画における「男」と「女」のイメージを引き継いだ存在と言えよう。
だが今作には、過去2作とは決定的に異なる点がいくつかある。しかもそれらは恐らく意図的に、今までの映画で発生してきた因果を断ち切るような役割をしていたように見える。
まず特徴的なのは、物語を決定づける災いが比較的序盤の方で展開される点だ。結婚生活に満ち足りていた主人公は、複数の災いの同時発生に伴い、急速に喪失を抱えた存在へと変化する。そして物語は、彼の傷を癒すことにベクトルを向け始める。これまで多くの作品で「なぜ人は人を傷つけるのか?」をテーマとしてきた監督であるが故に、この治癒の物語は今作の主人公だけでなく、これまでの監督の映画の登場人物たちのその後を描いているかのようである。
彼の“療養”の場が広島であるということも象徴的だ。例えば中盤の清掃工場のパートで、ドライバーはこの工場の空洞は原爆ドームへと繋がることが解説される。確かに広島という土地もまた主人公やドライバーと同様に(規模は全く異なるが)、災いのその後を生きる存在である。今までの人生の全てを破壊するような出来事に遭遇してもなお、その傷を受け入れつつ前へと進んでいった広島の戦後復興の姿は、主人公とドライバーのその後を予告しているかのようである。
その点でいえば、今作が描きたかったもののひとつに「人の心の中の時間」があったのではないかとも考えられる。主人公は初めは過去で時を止めてしまった存在だったが、様々な出会いや経験を通してその時計の針を再び進め始める。その触媒として、同様に過去で時を止めて宙ぶらりんの状態になっていたドライバーも関与する。一方で妻の不倫相手は、過去(より狭義に言えば過去の彼の栄光)に囚われ続ける存在であると位置づけることができる。自我の根拠が過去にしかないが故に、現在に対する不安を暴力的な形で表現するしかないし、短気で刹那的な性格にもなってしまった。またワークショップで登場する韓国人夫妻は、まさに今作で主人公(とドライバー)が終盤に目指そうとするものを体現している。過去に由来する困難を抱えつつも、その現在を受け入れ前向きな未来を描こうと生きる姿は、どこか前述の戦後の広島の歩みにも類するものがある。

村上春樹原作特有の気持ち悪さがあるのもまた事実だ。知的エリートで一方的な傷を抱える男性という主人公像には、さすがに80年代的な古臭さを感じざるを得ない。また濱口監督自身の過去作品も、その雰囲気を継承してきたようにも感じられる。しかしながら、映画の登場人物の人生が劇中の起承転結に完結しないような開放感は、単なる原作映画化モノとは一線を画す面白さがあるだろう。
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