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ドライブ・マイ・カーのakinakiのネタバレレビュー・内容・結末

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます


昨今、映画製作は大作主義に追われ、いよいよ映画人中心の作品づくりが厳しくなってきた。おそらく企画会議でも、マーケティング、ユーザー参加やカスタマージャーニーといった言葉が飛び交い、作り手自身が辟易としながらも、次の作品づくりのために自身の本来の想いに対して妥協するということも増えてきているのではないだろうか。同時に原作リスペクトといった言葉もユーザー評価の中で非常に重要な位置づけを占めるようになり「一端、別の媒体に展開されたらそれは別モノ」といった考え方ももはや一掃されつつある。つまり、映画作家としてのビジョンよりも原作を忠実に映像化出来る匠の技が求められるようになり、そういった作り手が観客に評価されるようになってきた。

このような時代にあって、本作は、原作をリスペクトしつつ監督の作家性やメッセージをきっちりと描くことが両立出来た稀有な作品と言える。

まず、『ドライブ・マイ・カー』という短編を選んだことで、映像化にあたって短編では描き切れていない世界観を埋める作業が生まれた。ここを単に時間を埋めるためのショットをつなぐのではなく、監督自身の作家性やメッセージを全面的に導入することに全てを費やしたのが見て取れる。

これに加えて重要なのがドライバーである渡利との出会いを事故ではなく国際演劇祭での作品上演に向けた長期ワークショップに参画するうえでの必須条件としたこと。こういった行政がらみの助成金(文化庁や地方行政)が入るような文化イベントではそういった条件が課されるのは自然であり、そのような意味で、妻への想いを全く断ち切っていない家福と渡利の出会いを強制的に生み出した。強制的な形での出会いなので、当然二人の第一印象もいいものではなく、そこから、如何に二人の関係性が変わっていくのかをつぶさに描く余地を生み出した。二人の距離感も家福の車での着席する場所や、ドライブ中に家福が台詞を覚えてるために流す亡き妻による台本読み合わせテープの再生頻度、渡利の「業務外」での家副との関わり方などで徐々に紡がれていく。

また、短編では単に自身が携わってきた作品のひとつとされていた、戯曲「ワーニャ伯父さん」を前述の国際演劇祭での多言語劇としての演目として演出するという設定とし、オーディションから本番までをメイキング映像よろしくドキュメンタリータッチで本編の主要シーンとして描いた点も特筆すべきだろう。多言語劇にすることで、ロシア文化や社会を色濃く反映するはずの演目を「ディスコミュニケーション・ディストピア的な世界でも天命と人間愛のもとに生き残るべきだ」という監督としての強烈なメッセージを示すプラットフォームへと転換することに成功している。これがクライマックスシーンへと直結し、観客の心を揺さぶる役割を果たしている。

さらに挑戦的と言えるのが、監督が意図的に昨今の大作などで主流となっている三幕構成や、伏線のめぐらし方(物語、人物像含む)、映像によるテリング至上主義といった手法を全て崩しにかかっているという点だ。

結果的に、村上春樹により語られた内容を損なうことなく自身のメッセージを社会的背景や階級に関わらず伝わるようにしっかりと描かれた。そのような意味から本作で重要だったのが「テキスト」である。戯曲の台詞が、車内、リハーサル、そして本番と作品全編の中で散りばめられているが各シーンで語られる台詞は全て 家福の心情を表していると見てとれるのだ。妻に対する疑念や恨み、自身の心情を伝えきれなかったことに対する悔恨や生を選ぶ決意など、心情の変化も全て感じ取ることが出来る。まさにすべてのセリフが誰から語られたとしても家福の心の声だったということが出来る。

むろん、「テキスト」のみではない。様々な表象も非常に重要な役割を果たしている。家福と高槻との対峙におけるカメラ目線での独白シーン、北海道への道中での双方の自責の念を吐露した際の暗闇、そしてすべてを「語りつくした」後に描かれるフェリー上の海原、さらに翌日の白白明、雪原、そして二人を包む日差し、そして劇中劇でのクライマックス。これら一連のシーケンスはまさに罪の告白と、贖罪、そして救済の流れに他ならない。そしてこれは「この困難な世界であっても、迷いながらも「生き残ることを選べば」天命とは言わずともいずれは明るい未来へとつながる」という私たちひとりひとりのメッセージへとつながっている。

こういった挑戦的なストーリーテリングが出来る「日本」という環境はもはやハリウッドや欧米のように商業主義が席巻している業界は羨望の眼で見ているのかもしれない。
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