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ドライブ・マイ・カーのsoukenのレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
3.5

海外から帰ってくる、
すごく好きな女性を、
空港まで迎えにいった。
空港まで誰かを迎えにいくなんて、
残りの人生、
もう二度としないんだろうなあ。

そんな淡い恋のドライブの記憶に浸りながら、
この作品、村上春樹が原作者であることを知った。

そんなわけで、あの時のことを、たとえば、そう、春樹っぽく。


「どらいぶまいかー」

その日、僕は目覚まし時計より早く起きて、雨戸を開けて、外の空気を目一杯吸い込んだ。
時計を見ると四時を回っていた。
外はまだ夜が続いていたし、空気はひどく冷たかった。
遠くからカラスの鳴き声が聞こえた。それは久しぶりに吹かしたエンジンのように鈍い音だった。
やれやれ、と僕は思った。

シャワーを浴びて、髭を剃ったあと、僕は車に乗り空港を目指した。
空港に着くまでのあいだ、もちろん色々なことを考えたけれど、特筆すべきことは何もない。
強いていうのであれば、運転中、左手の小指が痺れて、うまくハンドルを右にきれなかったことくらいだ。

空港に着き、駐車場に車を停めて、僕は彼女を待った。
ビートルズのレットイットビーを口ずさみながら、帰国した彼女が一番聞きたそうな曲について考えた。

それから間も無くして彼女はやってきた。
何も言わずに後部座席にキャリーバッグをおき、「ただいま」と彼女はチャーミングに笑いながら助手席に座りこんだ。

迎えに来てくれてありがとう、と彼女は言った。
「どういたしまして」と僕は答えた。
「ねえ、聞いてくれる?」と彼女は言った。
「飛行機のなかでどうしてもトイレに行きたくなったの。でも、着陸寸前だったから行けなかったの」
車のなかは、彼女が乗車する直前に切り替えたKinKi Kidsの歌が流れていた。愛のかたまり。彼女の好きな曲だ。
「どうしてもトイレに行きたくて、でも行けなくて。たぶん私、極限だったと思う。これまでの人生で一番の極限ね。あなたには理解できる?」
「実はさっき、僕も極限だったんだよ」
彼女は大きな声で笑った。
「帰国して最初に話す相手があなたで良かった」と彼女は言った。
「どういたしまして」と僕は答えた。

帰り道、彼女は何も喋らなかった。ときどき、小さなため息をついていたけれど、それは対向車の音でかき消されるくらい小さなものだった。
僕も慣れない運転に緊張していて、会話の始まりを考える余裕がなかった。
それでも30分程過ぎた頃、彼女はついに沈黙を破った。
「ねえ、聞いてくれる?」と彼女は言った。
「もちろん」と僕は答えた。
「さっき、極限って言ったけれど、あれは嘘よ。ただ、我慢しただけ」
「僕も我慢しただけ」
「でもね、私、知っちゃったの。我慢に底は無いってね」
「我慢に底はない」と僕は繰り返した。
「そう、我慢に底なんてないのよ。それはたとえばマンホールに底が無いのと同じようにね」
「マンホールの底」と僕は言った。
「そう、マンホールにも底はないのよ。井戸に底がないのと同じようにね。それに我慢にも底がないの。つまり、極限なんて存在しないのよ。完璧な絶望が存在しないようにね」
「完璧な絶望は存在しない」と僕は言った。
「そう、完璧な絶望は存在しない」と彼女は言った。

僕は、昔読んだ小説を思い出した。
それから、その小説の一文を思い出した。
「完璧な絶望は存在しない」
僕は、彼女がまるで海外で新しい大陸を発見したかのような具合で言った「完璧な絶望は存在しない」という言葉が、昔読んだ小説の有名な一文とまったく同じであることに気がついた。
僕はその小説を知っているし、その言葉を知っているし、何より学生の頃にその小説を何度も読んでいた。
彼女は多分、その名言中の名言を、トイレを我慢したという小さな物語から悟ったことにしようとしていたのだ。
「完璧な絶望ねえ」と、僕の口からはほとんど無意識に声が出た。
「そうよ。完璧な絶望が存在しないように、我慢に底なんてないのよ。マンホールに底がないようにね。そう、井戸にも底がないのよ。うん。本当にそうなの。完璧な絶望が存在しないようにね。あなたにはわかる?」
「僕には少し難しいかもしれない。いまいち飲み込めないや」と僕は答えた。
「やれやれ」と彼女は僕の反応にいささかがっかりしていた。

その日の夜、僕は家の本棚をあさり、「完璧な絶望が存在しない」という一文の記載のある小説を探しだし、その文言の書かれたページを何度も読み返した。
なるほど、と僕は思った。これがどこにでもいる普通の人間のやり方なのかもしれない。平凡ゆえに、他人の言葉をかき集めては、自分の言葉のように使う。まるでノーブランドのバックにブランドの違う化粧品やら他人からもらったハンカチやら薬局の安いリップを無秩序に突っ込んで、無秩序に取り出すように、気に入った他人の言葉や意見や考え方を所有物化し、あたかも所有者のように毅然と振る舞う。
僕はそんな、現代の平均的日本人の象徴とでも言うべき彼女の平凡すぎる人間らしさに惹きつけられてしまっていることに気がついた。僕の方が彼女よりほんの少し先に生まれ、ほんの少しだけ人生経験を積んでいるけれど、彼女は僕を正しい場所に導いてくれる気がした。普通の人と一緒にいれば、道を間違えることはない、と僕は思った。目的地を正確に教えてくれるカーナビのように、彼女は僕をちゃんとした場所に連れて行ってくれるに違いない。

僕はすぐに彼女に電話をして、「君のことが好きだ。すごく好きだ。君と一緒にいれば、僕は普通の人生を送れると思う。朝起きて、毎日淹れたてのコーヒーがテーブルの上にあるような、普通だけれど、すごく幸せな時間を過ごせると思う。夜は時々、高級フレンチを値段を気にしながらも上品に食べて、高いけど美味しかったね、高いけどまた来たいね、と正直に言い合える2人になれると思う。僕と、どうにか付き合ってほしい」と告白をした。
彼女はしばらく沈黙を続けた。ほんの数秒のことだけれど、僕にはそれが宇宙飛行士が月まで行く時間くらい長いものに感じた。
「私もあなたのことは好きよ。でも今、あなたはいったいどこにいるの?」と彼女は言った。
僕? 僕は今、あれ、僕はいったい、今、どこにいるんだろう。
僕はどこでもない場所から彼女に電話をかけていた。
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