藻類デスモデスムス属

ドライブ・マイ・カーの藻類デスモデスムス属のレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.5
ずいぶん遠くまで、きた。

 
いつの間にかきていた、こんなところまできてしまった。そう感じるような日がくるだろうか。ここまでやってきた、と思う。その違いは、大晦日の翌日は元日だと、まだ信じているということだ。行先も、流れる景色も変わったが、知悉する道を走っている。ここまでやってきたときには、およそここからが計画されている。何度も手にして、しわしわになった日程表(itinerary)がサンバイザーに挟んである。道を逸れたと思うこともあったが、都度柔軟に修正した。ハンドルから手が離れたら掴みなおそうと努力した、という道。完全に委ねるなんてことが?
 
海のみえる窓。カルデラに流れこむ大量の水を、遠くに聞く。海をわたり、はるばるやってきた島で漫画を読み耽る。『25時のバカンス』。いたずらに流れる時間。悪戯に? 浸食され、割れそうなものだけで流れ着く。ほぼ波。なにかを捨ててきたわけじゃない。みるための枠をねだった。地形になる。何時のフェリーに乗り遅れたらおわりとか、帰りのこともちゃんと考えています。
 
道を変える方法を知りたかった。知らない道にいく方法。それを見つけようと、ワークショップにもいくつか参加した。そのとき知り合った人が『ワーニャおじさん』の舞台に立った。何年か前のことだ。原作は未読だった。みおわって、何も出てこなかった。よかった、以外には。枯れ井戸だった。要するに分からなかったのだ。思いがけず、同じ舞台に出会った。今度は、すっと入ってきた。動かされた。何度も繰り返されたテキストを、大方忘れてしまっている。どこにもいけない話なのだ、と強く思い込んでいる。
 
偽物の火がきれい。グラフィックの暖炉、所詮、偽物と甘くみていた。が、満足した。「やっぱ本物でしょ。キャンプはいいぞお」。追従笑いをして、ガラスを間に挟んだまま人と話をする。その場にとどめられることと、どこかに流されていくことが、道を挟み、似通った姿をしていた。どちらとも折り合いをつけられずに、ハンドルを握っている。断絶を求めながら、地面に顔を近づけ、自分が引いた跡や、分泌したものをみつけだす。ふと、どこにもいけてないのではと気づく、だとしても、それはきっとまだ先のことなのだろう。
 
みおわって、遠くまできた、映画に連れてこられたという感じがした。はじめとは違う場所にいる。鞄をかけるフックのように他愛のない、小さな引っ掛かりであっても、それはすごく大事にしたいこと。