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ドライブ・マイ・カーのmariのレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
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他人と通じ合うとはどういうことなのか。




僕たちは魂がひとつに溶けあったかのような高揚を互いに与えあった。彼女の魂の形を僕だけが知っている。彼女自身でさえも知らない彼女の魂の奥底を覗き込んだのは僕だけで。彼女の魂からの言葉を紡ぎだす2人だけの崇高でセックスよりも官能的な共同作業。





情事とその事後の彼女の無意識の語りはそうして満たされようとする家福の夢。村上春樹の『女のいない男たち』に収録されてる『シェエラザード』からの演出。彼女の身の内の何かに触れたような気がした男の話。



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--あの語りは映画のもとの一篇「シェエラザード」から選びましたが、先日、野崎歓さんと対談しました(『文學界』2021年9月号掲載)。ご自身も素晴らしい翻訳者である野崎さんは「我々がおこなうあらゆる作業は翻訳なのだと言える」という趣旨のことを『翻訳教育』(2014/河出書房新社)に書いていたと記憶しています。音のイタコ的なストーリー・テリングもいわばひとつの翻訳なんだとは思います。ただ、柴田さんがおっしゃったような「絶対的に透明な存在」にならない部分は確実にある。翻訳者に固有の身体ですね。演技も、テキストとして書かれたある役柄を自分の身体を使って翻訳して、立体化していると言えます。そのときに演者が透明になって役が生まれるのではなく、演者の身体がむしろ作用します。身体によって歪められてしまったり、その身体からしか生まれないものが存在するようになる。
音がイタコ状態で語る話も、彼女の身体や記憶に固有のものとして捉えました。それを語る行為は、音自身のそれまでの生と深く結び付いている。単純に天から降ってきたのではなく、彼女からしか生まれない話です。だからこそ、それがのちに繰り返されるときに家福は衝撃を受ける。演技においても同じようなことが起きると思っています。その役者に特有の仕方で、あるテキストは現実に翻訳されることになります。

(2021年8月)
神戸映画資料館 『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介監督インタビュー
取材・文/吉野大地





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言葉が持つ役割を過信しない家福が、誰よりも言葉の重みに耐えかねている。もう無理だと耐えかねている。


外国語や韓国手話で繰り返し本読みをすることで、言葉がどんな文脈からも切り離されて、ただの音になって、ただの意図になって、作為と切り離されて、そこではじめて話し手と聞き手のすべてのノイズが削ぎ落とされた、剥き出しの"心"のやりとりが行われる。

これだけ純粋な意思疎通をどうやったらわたしもできるんだろうか。あとどれだけの孤独に耐えながらまるで繰り返し繰り返し本読みをするように、他者の言葉から"剥き出しの何か"を受け取れるようになるまで、そのときが訪れるまでの準備をする。


そしてその準備をしても他者は他者ですべてを理解することもできない。魂に触れて、魂をひとつにした気になるほど他人だということに気づかされる。






言葉を過信せず、でもそれと同時にその"Text"の重みに耐えかねて、『わたしは傷ついている、それもとても深く』といって涙を流す日を待っている。そして涙を流したことを振り返ってそっと息を吐く。辛かったことを懐かしく微笑ましく思う。1人では涙を流すことができない家福にみさきというドライバーがいたように、ワーニャ伯父さんにソーニャが語りかけたように。
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