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ドライブ・マイ・カーのyoecoのネタバレレビュー・内容・結末

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

外国語映画賞とる的な映画の雰囲気って、あーいう感じだろ?とタカをくくっていてすみません…。
なんて、映画らしく映画なんだ!

ワーニャ伯父さんとは?ゴドーとは?チェーホフとは?に始まり、戯曲の多言語展開だとか、説明をしようと思えば説明が必要なことばかりなのだが、それは一切しない。

なぜなら「わからないことは普通」だから。

途中、「なぜ日本語以外が話されてるのに字幕がない?」というフラストレーションがたまるかもしれない。
でも、あなたの人生には、字幕も注釈もつかない。

「相手の言ってることがわからない、というのは、私にとって普通のこと」by ユナ

手話者という、コミュニケーション・バリアがわかりやすい彼女にこれを言ってもらうことで「ディスコミュニケーションは普通であること」「その上でわかり合おうとすること」というテーマがすんなりと。

外国語だと何を言ってるかわからなくて…
お経みたいで眠くなるわね?
と、キャストも話していたが、屋外でのユナとチャンのシーンでは、超えてわかり合おうとする切実さが凝縮されていた。

映画において、奇跡的なことが起こるシーンというのは、なかなかそのものを映しとることはなく、驚いてる顔や盛り上がる音楽(反対に消音とかも)、などの記号で『奇跡が起こったという体(てい)』を表現することが多く、それに慣れていたので、演技で見せられてとても驚いた。

大事にされてきた赤いサーブは死んだ妻。録音された妻の声で満たされている棺。
それに応えるように台本を読みあわせる家福。まるで会話のよう。
でもそれは、決まったルーティンをなぞるもの。相互に何かを分かり合えはしない。

家福は、妻の化身の赤いサーブに他人が入り込むことを喜ばない。
黒子のようなミサキが乗ることを許したあとも、「浮気相手の高槻を音(である赤いサーブ)の中に入れる(挿れる?)」のには抵抗を示す。

岡田将生は、キャストの中で、きちんと浮いてる感があり、ツール(言語や社会ルールなど)に拠らない生のコミュニケーションを取って変化をもたらす、闖入者としての存在感があった。
その闖入者に乱され、家福とミサキはサーブを汚すとしてもタバコを吸う共犯者になり、変化へと足を踏み出していく。

ところで、戯曲というものは既に書かれており、決まった結末へと帰って行く、ルーティンであるはず。
しかしながら、その演者によって、同じ戯曲は違うものになり得る。

いつもと同じ「ワーニャ伯父さん」のラスト、『生きていきましょうね』のセリフ。

広島演劇祭においてのそれは、ユナの韓国手話をわからないながらも受け止めた家福にとっては、赤いサーブ(妻)と訣別して生きていくセリフに。
そして、観劇していたミサキにも、コロナ下の韓国へ向かうきっかけに。

だから、ミサキ,
僕の赤いサーブを運転しておくれ
DRIVE MY CAR
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