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ドライブ・マイ・カーのJFQのネタバレレビュー・内容・結末

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

なんというか、日本にやって来て地方の古民家とかに見惚れて住み着く外国人なんかが好きそうな映画だと思った(笑)静謐な風景の中、なめらかに曲がる車があり、そこには黙々と丁寧に仕事をこなす人がいて…、皆言葉少なで胸に何かをしまいながら話していて…。そんな「静寂の国・NIPPON」にいると、日々、自己主張自己主張で疲れてしまう欧米社会では得られない「魂の癒し」が得られるのだ…みたいな(笑)。

役所広司の「パーフェクトデイズ」も含め、こうした「静寂モノ」が(海外も視野に入れた)日本映画の一勢力になっていくのかな、なんてことも思う。

さておき。「癒し」というか、こんな言葉があるのかは知らないが「ドライブセラピー」とでも言いたくなる映画だった。この「セラピー」が癒すのは何かといえば、主人公が負った「心の傷」ということになる。けれど、同時にそれは映画を観ている我々近代人が負いがちな「病」に対するものでもある、のだと思う。

別の言い方をすれば、近代人が抱く「自分像」「他人像」「社会像」とは別のビジョンに「患者(主人公/観客)」をいざなう事によって「傷/病」を癒すセラピーと言えるかもしれない。

では、そのセラピーが癒そうとする「傷」とは何か?
映画は、大切な娘を失った主人公夫婦(西島秀俊/霧島れいか)の生活を描く。そう言うと「娘を失った悲しみ」が「傷」なのかと思うかもしれないが、映画は別のところに焦点を当てている。

映画は娘が死んだことそのものよりも「死なせないこともできたかもしれないのに死なせてしまった」という罪悪感が「傷」なのだと描く。この「できたかもしれないのにしなかった罪悪感」は、その後も、妻を死なせないこともできたかもしれないのに死なせてしまった主人公の罪悪感や、母を死なせないこともできたかもしれないのに死なせてしまった運転手(三浦透子)の罪悪感という形で反復される。

この罪悪感は「自分が行動し、他人に働きかけて、社会ができる」という近代人の「自分像」「他人像」「社会像」が生み出しているものだと思う。別の言い方をすれば「自分の意志でやって起きたことの責任は自分が負え」が生み出しているものだと思う。

つまり、まず、意思をもった自分がいて。それが自分の意志で行動して。それの結果、他人に良いこと/悪いことを引き起したと。ならば、そのケツは自分が拭けと。それが社会ってぇもんだろ、と。

これ自体は「まあそうなんじゃないの?」となるだろう。けれど、この認識が「病」を生むことがある。その1つが本作でも描かれる「●●することもできたのに、しなかった結果、××になった」という状況なのだと思う。

何を言っているかと言えば。この「しなかった」が「自分の意志」だとは思えない場合があるということだ。「いや、そこまで強い気持ちで”しないこと”を”選んだ”わけじゃないんだけどなあ、、」という感覚と言ってもいいか。

そして、このことがうまく受け入れられないと「罪だと責められているがどうしていいか分からない…」という感覚になるのだと思う。これが主人公たちや近代人に「病」を引き起こす。

映画では、この「わからなさ」のためワーニャ叔父さんという「劇の世界」に「逃避」する夫や、「他の男とのセックス(忘我)の世界」に「逃避」する妻が描かれる。けれど、そのことが妻の死を引き起こしてしまい、主人公はさらなる「罪の意識」にさいなまれる。そして「劇の世界」に逃げ込むこともできなくなってしまう…。

そこで「ドライブセラピー」が登場する。セラピーは大きく3ステップを踏む。

映画には、「セックスが終わると自分でも覚えていない物語を語り出す妻」や「好きな少年の家に忍び込んで自分の痕跡を残してオナニーする少女」や「前世はヤツメウナギ」や「話が通じないヤツらの演劇」や「二重人格の母」など、「なんやねんそれ!」というモチーフがいくつも盛り込まれる。

そのため「男が心の傷から癒える物語になんでそんなわけのわからん要素がいくつもいるん?」と思う人も多いと思う。原作の村上春樹の小説にあるとしても、そこまで盛り込まんでもよくない?と。けれど、これらは「セラピー」のための道具立てなのだと思えばいい。いや、そう思うことにした(笑)

で、1ステップ目。これは「自分の中に他なる言葉を取り込む」という作業になると思う。映画は、妻がセックスの後つぶやく「小説の言葉」、ワーニャ叔父さんという「芝居の言葉」、外国語、手話…など、自分にとっての「異言語」=「他なる言葉」が飛び交う。これらの言葉を主人公(&観客)が自らの内に取り込みながらストーリーは進んでいく。
またそのことは「好きな少年の家に忍び込んで自分の痕跡を残してオナニーする少女の物語」や「ヤツメウナギの記憶」など、「自分の中に他なるものが入り込んでくる」というモチーフによっても補強される。

そして2ステップ目に向かうが、ここでは「認識の逆転」が目指される。というのも、さっき「自分の中に他なる言葉を取り込む」と書いたが、元々、そんなにしっかりした「自分」などあったのか?と。むしろ、他なる言葉に対して「そうそう!」「ちがうだろ!」などとリアクションするところから「自分」が立ち現れるのではないか?と。

そのことを示唆するモチーフとして「多言語演劇の本読みレッスン」がけっこうな時間を費やし描かれる。そこでは、役者が自分なりに役作りをして登場人物を演じるのは「ご法度」とされる。代わりに、まず他人(他役)の言葉を聞いて、コツンと合図があったら、自分がリアクションするという手法が推奨される。

つまり「意思を持った自分」から出発するな!と。そうではなく「自分」とは、他なるもの達の呼びかけに応える中で生まれるものなのだと。難しい言葉で言えば「アフォーダンス(提供するもの)」の認識といってもいいか。

ようは「昼はうどんを食おう!」を「自分の意志」だと思うなと。昨日、こってりしたものを食ったので胃があっさりしたものしか受け付けないことや、その日の気温が低いから皮膚が温まりたいことなど、胃や皮膚や××や●●…の呼びかけに反応した結果が「うどんを食おう!」=「自分の意志」なのだと。

このように認識の転換を導くことで、「自分が行動し、他人に働きかけて、社会ができる」という近代人の「自分像」「他人像」「社会像」もまた転換されていく。つまり「自分が…」から始まるのではなく「他人が集まることで(社会)、それぞれの自分が生まれて、その中に自分の自分がある」と。

こうした「認識の逆転」により「罪だと責められているがどうしていいか分からない」が生む「傷」=「近代が生む病」を治癒していく。

けれど、これはこれでやっかいな問題を生む。なぜといって「自分とは他なるものの呼びかけで生まれるもの」だと今、書いた。ならば、責任はどこにいくのか?と。自分のしたことは全部「他なるもの」の影響だとすれば、自分に責任なんてないやん、と。

そこで、他なるものの影響なのだとしても、それを「我がこと」として受け入れるという作業が必要となる。普通に考えたら「ありそうもない」ことに思えるが…。けれど、これを目指すのがステップ3になる。

映画は、中盤部分でいろいろあったあげく、主役のワーニャ叔父さん役の俳優(岡田 将生)が降板。劇の演出家である主人公がワーニャ叔父さんを演じなくてはならない状況に陥っていく。だが先にも書いたとおり、すでに「二重の罪の意識」から主人公はワーニャを演じることができなくなっていた。それでも演じなければ劇がポシャってしまう。そこで「考える時間をくれ」といって、主人公は、運転手の故郷・北海道へ向かう。運転中に彼女が話し始めた「過去」に何かを感じたからだった。

北海道に着いた2人は、彼女がかつて住んでいた家の跡に向かう。そこでは、彼女も母もつらい人生を送っていたこと。そこから逃れるためか母は「もう1つの人格」を生み出していたこと。そんな中、火事が起きたこと。自分は逃れたが母は火の中にいたこと。それでも自分は助けを(呼べたかもしれないのに)呼ばなかったことを確認する。すると主人公は、それまで向き合えなかった「傷」と向き合えるようになるのだった。

これは何だろうか?おそらく「自分がたどってきたことを他人の目でみてみる」という作業なのではないか?今書いた話のアウトラインをなぞれば、それは主人公のこれまでと多くの点で重なっている(「別の自分」に「逃避」したこと。●●できたかもしれないのにしなかったこと。そのことに「罪悪感」を覚えていること等)。

だとすれば。運転手のこれまでを聞いて「いや、そんなに抱え込まなくていいんだよ」と思えるとすれば。それをそのまま自分に適用すればいいではないかと。それができれば、「他なるもののいろんな影響」で「事が起きた」のだとしても、それを自分のこととして受け入れることができるんじゃないか?と。

その後、映画では主人公が舞台に立つ。そして堂々たる態度でワーニャを演じ、見事な「多言語演劇」が上演される。そして、その様子を見届けた運転手(セラピスト)も、仕事を終え、異国に向かい、映画は幕を閉じる。こうして3ステップの「ドライブセラピー」が無事終了するのだった。

けれど、どうだろう?「近代人が陥る病」をも癒す野心的なセラピーだとは思う一方で、そんなにキレイにいくもんかいな?とも思う。特にステップ3。分かる気もするが、どうだろうとも思う。
実際、「自分像」「他人像」「社会像」の転換を経て演じることができたワーニャ叔父さんが、多言語ということを除けば、そこまで斬新なものに見えなかったのであって。言ってしまえばシアターモリエールとかで演じられる「あの手の演劇」とたいして変わらんのでは?と。そんなことを思うには思った。

それでも、このセラピーと共に描き出される「意思が通じない(別の言葉を話す)面々が集まって紡ぐ物語(歴史)」というヴィジョンには面白さを感じたこともまた事実で。それまで近代国家といえば「意思が通じる(同じ言葉を話す)面々が集まって同じ歴史つむぐ」ものだった。それとはズレるビジョンが「新たな社会像」を示唆するようにみえ新鮮に思えたのだった。
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