凜太郎

ドライブ・マイ・カーの凜太郎のレビュー・感想・評価

ドライブ・マイ・カー(2021年製作の映画)
4.5
いい映画なんじゃないですか、これは。展開が気になりグイグイと引きつけられる映画ではないですし、観終わった後に拍手したくなる感じの映画でもないです。主人公は妻を亡くし、彼女が抱えていた秘密が何なのかわからないまま生きています。身内の死という悲劇に対して感動的な結末で昇華するのではなく、乗り越えようとするのでもない。残されたものは死の不条理にどう向き合うのか。そうした問いかけにフィクションとして真摯に向き合っている映画だと感じました。

村上春樹原作ということもあり、主人公の雰囲気は「風の歌を聴け」や「ノルウェイの森」に近いような気がします。自分だけ生き残り、どうしようもないが人生は続くから生きていくしかない。主人公の家福は妻の最後まで彼女の不義に目をつむっていました。ある意味それが妻への愛であり、おそらく他の誰でも同じようなことをするしかできないような特殊な夫婦関係に家福は陥っていたと言ってもいいのかもしれません。子どもの死というものが、妻の心にそれほど深い傷を残してしまいます。それは手の施しようがないほどの深い傷で、家福の愛を持ってしても妻を完全に回復させることはできません。いわば傷口にナイフを刺したままにしておくことしかできないようなもの。無理にでもひきぬこうものなら、妻を失ってしまう。おそらくは心理的な応急処置として、妻は家福に内緒で男たちと関係を持ちます。家福は妻の不義を偶然目撃しても、黙って見過ごすことしかできないのです。この「どうすることもできなさ」がまたリアルというか。うーん…となってしまいます。
そしてその妻が突然の病で亡くなり、家福は妻の心の奥底にあったものに触れることができないまま、別れを告げることになります。妻の家福への愛は間違いのないものなのに、どうして裏切る行為をしていたのか。これは村上春樹的な言い回しなのですが(自分的解釈の)、生き残ったものはその日から歳をとり続け、死の意味は分からないまま。それでも人生を続けるしかない。家福は妻に取り残されることになるのです。(おそらくですが、家福=カフカのもじり?なんてこともあったりして)

この村上的なテーマに映画は劇中劇という形でヒントを与えてくれます。俳優の家福が映画の中で演じるのは「ゴドーを待ちながら」。有名な不条理劇です(…といいつつ観たことはありませんが笑)。不条理劇は、劇中に起こる出来事に作品的な解釈が与えられないままストーリーが進行し、そのまま幕引きします。例えばですが、もしミステリーで誰かが死んだら、物語が展開するにつれて死の原因が解き明かされていくはずです。しかし不条理劇の場合は、主人公に降りかかる出来事の理由は最後まで明かされないまま終わります。いわば登場人物と読者を置き去りにしたまま物語は進み、「ナンジャコリャ」なまま終わってしまいます。その不条理劇の代表的作品「ゴドーを待ちながら」を家福は俳優として演じるのです。

仮にこれを当てはめて考えるとすると、「ドライブマイカー」という映画は最後まで見続けても、妻が不義を続けていた理由はわからない。作中の謎について映画自体が何かしらのアンサーを残してくれることはあり得ない。最も身近であったはずの妻の秘密は最後までわからないままなのです。

そこに一つの救いを与えてくれるのがもう一つの劇中劇です。俳優の家福はある舞台の指導に当たります。それが言語の異なる役者が参加する「多言語劇」。「ワーニャ伯父さん」なのですが、役者が話す言語は、日本語、英語、中国語、手話… 意思の疎通が取れないまま役者たちは稽古に打ち込みます。あらゆる言語が飛び交いながら物語が進行する舞台。これは勝手な解釈なのですが、「通じなくとも関係を成立させる」ということなのではないでしょうか…?役者はお互いに話しているセリフは理解できないままです。そのヒントを与えてくれるのが岡田将生さんです(役名忘れました…)。中国語はできないけれど、中国人の役者とくっついちゃう。意思の疎通はできないけれど、それ自体として関係を成立させる。言い方は難しいですが、これが、もう話すことのできない、謎を残したまま去った死者とのブリッジのようになっているような気がします。向き合う相手と通じなくとも「そういうもの」として受け入れる。これが家福を物語の最後へ運んでいき、この世を去った妻との「出会い直し」のような形を迎えるのです。

喪失をテーマにした映画は数多くあると思います。「もう一度会いたい」「あの時こうしていれば」という展開で泣かせにかかるいわゆる「感動モノ」ではなく、喪失の不条理に真摯に向き合う。ここまで強い映画はあまりないのでしょうか。
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