明石です

エスター ファースト・キルの明石ですのレビュー・感想・評価

2.5
『エスター』の15年越しの続編。15年分歳を重ね大人になったイザベル·ファーマンがふたたび主演を務める、後日談ではなく、まさかの前日譚。公開時にスルーしていたものを、最近アマプラが「あなたが好きそうな映画」と激押ししてき、好奇心を抑えられず鑑賞しました。以下、前作が大好きだった私が、イザベル·ファーマンに敬意を表してちゃんとレビューします。

前作から15年経ったのに、作中の時間軸は2年「前」の設定、、イザベル·ファーマン、大人になったのに大丈夫かな?という一点を疑問に思い、観に行ってなかったのですが、その点がまず素晴らしかった。そもそも、エスターってすでに大人か、、と観始めて改めて気づいた。なんたって、化粧で子供に化けてたのが前作の種明かしなわけで、「ノーメイク」で大人に戻ったとしても不思議はないし、なんなら、15年も経ったことで本来のエスターの年齢に近づいたわけで笑。

ファーマンの上半身のクロースアップとスタントらしき子供を背後から映したショットを交互に見せることで、ファーマンを本物の子供のように錯覚させる演出が素晴らしい。もちろん合成でもできなくはないだろうけど、演出と編集でここまでうまく見せるのは偉いと思う。ファーマンが正面から映るシーンは、絶対に足元を見せないバストショットを徹底し、彼女の全身が映るのは後ろ姿のみ。たしかにその2種類を編集で繋ぎ合わせれば、大人の女性が少女の役を演じることは理論上可能なわけだけど(男の人だと厳しいだろうなあ、成長したらまず肩幅大きくなっちゃうから笑)、今まで誰もそんなことをしようとは、あるいは出来るとさえ思わなかったはず。それがやっぱり凄い。

しかし理屈としては分かっていても、主人公の顔と、本物の子供の後ろ姿が交互に映り続けると、足元映らないの不自然じゃない?とか、カットバック多すぎない?とか、ツッコミどころは仮にあったとしても、しっかり騙される笑。いつしか、そういうささいな不自然さは忘れる(私は15分くらいで気にならなくなった)。こういう、それまで誰もやらなかったことをわざわざ苦労してやる姿勢、映画にしろ文学にしろ美術にしろ「芸術」と呼ばれるものには絶対必要だと思う。その作品を踏み台にして、アトに続いていけるような、後続に先鞭をつける前のめりな試み。まずその点で、本作はしっかり評価されるべきと思う。

それから、もうひとつの懸念は、まさしく前作が名作たり得た要因にあって、あの、終盤の奇想天外な種明かしこそが作品の肝だったので、前作のラストを皆が知ってる上であえて「前日譚」を語るのは、タネを明かした上で手品を続けるようなもの。多分、そこが本作の作り手に一番求められることで、同時に、十字架にもなるものだと思う。前作の「驚き」を超えられるか、という映画的な仕掛けの部分。後述しますが、物語前半まではそれが凄く上手くいっていた。というのも前作は、孤児エスターにどんな謎が隠されてるのかを予想しながら見ていると最後にどんでん返しがあるという流れだった。一方で今作は、エスターの謎が周囲にバレないようヒヤヒヤして見るという逆のベクトルの楽しみ方ができる模様。(思えば、CGI等の技術に頼って、前作をそのまま「アップグレード」させようとした『物体X』の前日譚は、そのあたりが甘かった。前作とまったく同じことをしようとしてた)。その点、この映画は、前作のベクトルをあえて誰の目にもわかるように物凄く素直に真逆に向けてるのが良い。

精神病院を脱出する→アメリカに渡る→里親を殺す(なにしろ”ファーストキル”)の3部構成で、とくに序盤の精神病院の場面は考えうる限り最高の出だしでした。ただシナリオ面での旨さはこの前半で力尽きたよう。たとえばエスターが大人たちの秘密を明かしていく中盤の過程や、逆に、大人がエスターの正体に気づいていく過程は、ご都合主義的に済まされてる部分が少なくない。どこがどうと具体的にあげつらうかわりに、端的でいえば、登場人物全員ワキが甘すぎ!笑、ということに尽きる。でもシナリオは脇に置くとして、細かい演出は粋だなあと思う。たとえば舞台がアメリカに渡って以降ジミー·デュランテの”Glory of Love”がしきりに流れたりとか。これで誰もが、エスターの「輝かしい愛の物語」を予想するわけで、、何を隠そう、こういうホラー映画に混ざる非ホラー的な風合いが私は大好きなのです。なんだこの素敵な作品は。


、、と書いてきたけど
以上は物語前半までのレビューです!!

後半は、、でした。
以下ちょいと酷評になります(今作ファンの方がもしこれをご覧になってたらゴメンナサイ)。

作品中盤で明かされる、実は母親が、、というどんでん返し的な種明かしからすべてが壊れた。それ以降は「驚き」に正当性を持たせるための便宜的なストーリー。それなら序盤に母親が抱いていた感情はいったい何だったの?と遡ってツッコミを入れずにはいられない、、性格も、ワームホールに飛び込んだみたいに変わりすぎて、同じ人間には見えない。というかもはや人間でさえない笑。「殺し」の理由は「殺人者」にとって都合の良いものであるべきで、「製作者」にとって都合のいいものであってはならないと思う。私は残念ながら人を殺したことはないけど、人を殺した人には、人を殺した人にしかわからない苦悩があることくらいはわかる。でもこの映画に出てくる「人を殺した人」には、そういう苦悩がまったく感じられないし、ただ「人を殺した人」がいかにも持ってそうな性格が後付けでくっつけられてるだけ。そういうお話を、人は(少なくとも私は)作り物と呼ぶほかないのです、、

どんでん返し(ないしは驚き)を作りたい→それらしい犯行動機を用意する、の順序でストーリーが組み立てられてることが鑑賞者に知られてしまったら、その作品はまずもって終わりだと思う。(M·ナイト·シャマランがいまいち評価されなかったのはまさにその理由じゃないかな、、)。余計な老婆心かもだけど、映画作家は、たった1作の「驚き」のために作り手としての寿命を縮めるようなことはすべきじゃないと思う。少なくとも私は、こういう作品を作った人の次作は絶対に見ない。作中で母親が警官に向けて銃を放った瞬間に、この映画がやってはいけないことをやってしまったことに気づかされてしまった。前作は驚きに満ちてたけど安易な驚きはひとつもなかった。だからエスターファンとしては酷評せずにはいられんのです。

ただ重ねてになるけど、序盤はすんごく良くて、ああこれは名作だなあ、としみじみ思ってた。だから余計に心残り。エスターが孤児の女の子の写真を見ながら、その写真の真横に鏡を置いてニヤリと笑うシーンなんか最高にゾクっとするし、その直後に精神科医を殺す「ファーストキル」も、演出面でもったいぶらず鮮やかにキメてた。バールを振り下ろした瞬間にカメラが背後に回って例の子供の姿に変わったりする演出も鮮明に記憶に残る。観客をしっかり引き込んでいく、ホラー的に着実な演出で、作家的野心というよりは映画的良心で画面が作られてる感じに、とても好感を抱いた。映画において、親切で堅実なことは決して悪いことではないしね。あと終盤の殺人シーンが、子供ホラーの名作『マイキー』や『危険な遊び』へのオマージュになってるのも心憎い。この監督、ホラー映画大好きなんだろうなというのが節々から伝わる。

お母さん役のジュリア·スタイルズは素晴らしい演技。前作は、レオ·ディカプリオとマット·デイモンが取り合った絶世の美女ヴェラ·ファーミガでしたが、今作は、作品全体の堅実な雰囲気を体現するような配役。この人、『ボーン·アイデンティティ』で好きになった記憶があって、それから約20年、歳を重ねるほどに、彼女自身、どことなく自分でいることを居心地よく感じてるような雰囲気になってるのが観てて心地いい。声も落ち着いてるし大好き。父親役を演じてるロシフ·サザーランドは、、この人、お父さんのドナルド·サザーランドの面影がありますね(『24』の主役やってた兄のキーファ·サザーランドにはなかった笑)。体も大きいし。でもそれだけ。多分この映画の父親役には、エスターにころりと騙されて殺される愚鈍で良心ある男の役以外あまり求められてない気はするけど笑。

とりあえず、名作映画の前日譚という宣伝ばかりが大きくてあんまり成功しないジャンルは、『サイコ』も『悪魔のいけにえ』も『物体X』も、『ハンニバル·ライジング』でさえもがやっぱり上手くいってない中、本作はなんとか冒険しようとした跡が垣間見える。ただし見え過ぎる笑。こういう映画を好きな人はいると思うし、駄作だということは絶対にないと思う。でも前作のファンがこれを評価してたら、、ちょっと淋しいなと思う。すべての驚きに奇跡的なまでの整合性があったことが前作の面白さの所以だし。素晴らしく良い意味でも、そうでない意味でも、2度目はなかった。

ラストでめらめら燃える家の中を闊歩するエスターの姿は美しく、その他ホラー的な良心というほかない演出面での丁寧さと、大人になったイザベル·ファーマンの好演に敬意を評して、星2つはつけまする。何度も言うけど、エスターのお披露目から、故郷を脱出する序盤までは超名作だった。もういっそあそこでカットして、短編映画でした、ってことにしたらいいんじゃないかな。それか、To Be Continued的な感じにして永遠に終幕させないとか笑。前作のどんでん返しが受け、作品自体も爆発的に成功したことでストーリーに「驚き」を求められるようになったことが、この続編に枷をはめた本質的な要因と思う。不憫なことにね。
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