レインウォッチャー

くれなずめのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

くれなずめ(2021年製作の映画)
4.0
くれなずむとき、くれなずもう。

高校からの男友達6人が、結婚式に出席するため久しぶりに再会する。つかの間高校時代に戻ったように式の余興の準備を進める彼らだが、どうやら数年前に経験したある人物の死について誰もが未だに受け止めきれていないことがわかってくる。

やられた。
ラスト10分で評価自体がひっくり返される、なんて体験は初めてだったかもしれない。
それまでは、「設定の出オチ感が強く、敢えてなのか演劇風の作りだったり、やりたいことはわからいでもないけれどなんだかなあ」くらいの心象で、ここに書く文章もほとんど見えていたくらいだったのが急転。開幕からずっと白で攻めていたはずが最後の一手で黒だったことがわかったような衝撃を受けた。

まず明言しておきたい、この映画は「物語とは何か」の映画だった。
映画でも演劇でも良い、人が何か物語を創って語ってきかせることの一つの意義というか、ある意味効能とでも呼べるものが描かれていると思う。

それを一言で呼ぶなら「癒し」だ。
ひとりでは処理しきれない漠とした感情も、自分なりのフィルター(=主観)を通して物語として再構成し、誰かとシェアすることで整理が進むことがある。これは、古くから神話・おとぎ話・寓話などと呼ばれるものが証明してきた、物語がもつ根本的な力の一端であり、虚構(フィクション)を最大の叡智とするヒトという動物の偉大な発明だ。

その角度から思い起こせば、高校時代の回想シーン(みんな高校生に見えないっしょww)や後半にある超展開的ファンタジー描写(すべり芸狙ってるんか知らんけど普通にすべってるっしょww)なんかの真の意味がようやく、そして一瞬でわたしを貫き、理解する。
普通に考えたら辻褄が合わなかったりひどくチープに見えるシーンたち、これらはひとつひとつが劇でありIFのようなもの。彼らが彼らなりのやり方で「語る」ことで前に進もうとしているプロセスなのだと思う。そしてそれは、亡くなった彼をはじめて本当の意味で「送る」ことと等しい。

この考えは、ラストシーンを飾るあまりに美しい薄明の空に裏付けされているように思う。こんな本気の画を撮れる作り手が、あえて尺の大部分を使ってまでふざけ通した意味とは…ということである。
タイトルはやはり夕暮れ時を表す「くれなずむ」を活用させた造語とのことだが、この「なずむ(泥む)」というのは物事がなかなか進まず停滞することを指す言葉だ。このことからも、やはりこの作品が止まっていた時を動かすための物語であることが見てとれる。

序盤から中盤にかけて「これいつまで見せられるの?」と思ってしまう男同士・仲間内のひたすら続くアホなノリも、過去に足をとらわれ、記憶を風化させることを恐れる彼らの必死の足掻きだったのだと思える。青春を、まるで何かに強いられたように消費する姿はどこか痛みを伴っている。(まあ、それにしたって踏み絵が過ぎるとは思うけれど…)
「あれ?泣いた?…笑ってんのかーい!」のノリが反転するとき、悔しくもちょっと涙してしまった。

ところで劇中で前田のあっちゃん(今作のMVPはマジに彼女では)が言っていたように、今はSNSなどのデジタル遺品もあるから、誰かの死に対する現実感が薄れることはままあるだろう。「死ぬ前より死んだ後のほうが思い出すしなあ」。
この映画を観ると、人の死もまたやはり本質は生きている人々のためにあるといえるかもしれない、という考えが浮かんできたりもする。それもまたひとつのストーリーだ。

もしも、なんだかイケメン(とハマケン)が半裸でキャッキャしてたわねえ、くらいのご記憶の方がいらっしゃれば、一度こんな角度で観直していただくのも悪くはないのではないだろうか。あるいは過去に置いたままにしていた貴方の物語に再会するきっかけになれば、何より幸いである。