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ハウス・オブ・グッチのmOjakoのネタバレレビュー・内容・結末

ハウス・オブ・グッチ(2021年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます


 リドリー・スコット新作はグッチ家の崩壊をめぐるサスペンス。しかし、グッチ家の内輪揉めをゲラゲラ笑って観ていると、突然自分の喉元に切っ尖を向けられていたことに気づく。いかにもリドリー・スコットらしい重厚かつシニカルな傑作だった。

 元はノンフィクションなので話の展開は知っていたはずなのに、それでも改めてグッチ家の栄枯盛衰とその崩壊は信じられないほどドラマチック。パトリツィアがたまたま出会ったマウリツィオを手玉にとり、パオロやアルドを次々と丸め込んでは裏切って成り上がっていく様が、まるでアル・パチーノの『スカー・フェイス』さながらのサスペンスとカタルシスに満ちている。
 この映画を観たグッチ家の人々は怒りを表明している。それはそうだろうと納得してしまうほど、確かに劇中で描かれるグッチ家の人々はことごとくマヌケだ。みなグッチという権威に執着し、互いに騙し合い出し抜こうとして、最後には自滅していく。リドリー・スコットはユーモアを交えながら彼らに冷徹な視線を向けるが、はたしてこのグッチ家の奇妙な悲喜劇を通じて何を語ろうとしているのだろうか。

 グッチ家を描くのにもアプローチは色々ありそうなものだが、今回はやはりパトリツィアが中心に据えられているのが重要だと思う。彼女の父はトラック運転手をしていて、決して裕福な家庭ではない。マウリツィオの名字を聞いた途端に色めき立つのは、パトリツィアが自分の出自や家庭環境にコンプレックスを抱いているが故だと思われる。グッチという名前が欲しい、グッチを意のままにする自分でありたい。そんな気持ちがガガの演技からも滲み出ている。そして、その事がまさにグッチ家を崩壊に至らせる。
 パトリツィアは終始愚かで、強欲で、我が儘な人物として描かれる。しかし、果たして我々にはグッチに執着する彼女を嘲笑う権利があるのか。

 そもそも何故、人はグッチの服やロレックスの時計やベンツの車を欲するのだろうか。劇中でもグッチは元々特別ではないことが、創業者がホテルで働いていたころに革製品の需要が高いことから事業を始めたことなどから示される。革はただの革であり、服はただの服。そこに価値が生まれるのはグッチというブランド名があるからで、物の価値などはそもそも大衆が作り出した幻想である。
 そうであるにも関わらずブランド品に永遠の需要があるのは、権威を纏うことで自分が一角の者であると思いたいという卑近な欲望が全ての人間の中にあるからだ。しかもそれは経済的な貧富とは無関係であり、我々の鏡として機能するようにパトリツィアは映画の中心に据えられているのだと思う。パトリツィアは決して単に裕福になりたいという理由でマウリツィオに近づいたようには描かれない。彼女はグッチという名前を欲したのだ。離婚にだけは激しく抵抗するのも、最後に裁判所で放つ台詞も然り。しかしパトリツィアのその心理は、ブランド物を纏うことで何者かでありたいと願う我々の気持ちの、そのまさに延長線上にあるのではないだろうか。
 
 都内の劇場を出た後には、高級そうなコートを纏い、革製品のカバンを持っている人々がやけに目に付いて、すこし世界が違って見えた。それほど映画がよく出来ているという事であり、同時にリドリー・スコットがマウリツィオの死から見出した強烈な皮肉とは無関係に人々の営みは続いているということでもある。グッチ家の人々と同様に当事者であればあるほど己の滑稽さには気付けないのだと、自戒を込めて心に刻もうと思った。
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