ヨミ

ハウス・オブ・グッチのヨミのネタバレレビュー・内容・結末

ハウス・オブ・グッチ(2021年製作の映画)
3.6

このレビューはネタバレを含みます

リドスコ御大!!!!!!
ストーリーテリングがそんなに優れているわけではないが、やはり映像作家である。そこが70年代末のミラノであるとか、97年のニューヨークであるとか、それを信じさせる美術と映像によって物語られる。

個人的にはジャレッド・レトの演技が白眉だった。こんなにもボンクラを演じられるものなのか。すげー無能だもん。

ある種の貴族制は21世紀に持ち込まれない、という没落と今日の(ケリング下の)グッチに至るトム・フォード期までを描くが、やはり注目すべきはガガのバイタリティ。
同族経営のグッチ家のひとびとはみんなうっすら無能感が漂い、ガガだけが野望に燃えている(今にも繋がるコピー品問題に早くから目をつけていたのはガガだけである)

コピーということについて。
上述のようにガガはコピーを問題にするが、それは本人が署名signatureをコピーする、という能力を持つからだろう。グッチのシグネチャーはバッグである。自分は筆跡をコピーするからこそ、グッチのシグネチャーのコピー品は目敏く見破り、問題視する。署名とコピーの問題は物語を通して張り巡らされている。

そしてまた唯物性が問題になる。
服の映画だろうか。いや、肉体の、身体の映画だった。
最初のミラノにおけるシークエンスから、布のドレープよりはむしろそれが張り付くガガの肉体が強調され、構築的でフォーマルなシルエットでも胸を始めとする身体が常に提示され続ける。服は身体を覆うもので、その服から生み出される富や名誉といった抽象は、殺人というまた身体を伴った行為によってやりとりされるのである。契約、署名、株券、金銭といった抽象物にぶら下がったどうしようもない身体、無視できない身体。そしてそこに流れるグッチの「血」。嫁入りによって、抽象的にはグッチの名前になっても物質的には非グッチ家であるガガの執念が、唯物的なグッチと抽象的なグッチを求める物語だった。
ヨミ

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