古川智教

竜とそばかすの姫の古川智教のネタバレレビュー・内容・結末

竜とそばかすの姫(2021年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

まず注意して見るべきは、冒頭のすずの母が川の中洲に取り残された子供を助けに行って子供だけが助かり、自分は川に流されてしまうシーンで、如何にして人は見知らぬ他人を助けるのかという問い以上に、子供が川と川の「あいだ」にいたという事実である。虐待されている子供たちをすずが助けにいくシーンにおいても、虐待されている子供たちがいる場所は二つの自治体の「あいだ」である。(二つの夕方のチャイムの音の重なりでそれとわかる)なぜ、「あいだ」なのか。「竜とそばかすの姫」においては「あいだ」のモチーフが至るところに見受けられ、移行し、転移し、意味を変えていく。

映画の冒頭では、すずは渡り廊下からルカちゃんを憧れをもって見つめ、ボート部員を探しているカミシンとの「あいだ」にルカちゃんは挟まれている。この「あいだ」が最後には転移して、すずはルカちゃんとカミシンの「あいだ」に入り、二人の恋を駅の待合室で取り持つことが可能になる。記念写真や合唱のときにも「あいだ」が意識されていることにも注目しよう。
「あいだ」が邪魔をすることももちろんあり得る。すずとしのぶくんとの対話を阻む偶然やってくるカミシンや、車の往来のように。その逆にラストのすずとすずの父の間の線路には電車が走って来ずに「あいだ」を遮るものがなくなる。

現実と「U」と呼ばれる仮想現実の「あいだ」こそが現実なのだ。はじめの現実、「U」の世界と比較される学校生活は遡って見られた現実でしかない。現実と想像、現実と夢、現実と仮想現実、そのように人は対比をしてしまうが、実際にはそのふたつの「あいだ」に身を置いていることが真の現実なのだ。想像、夢、仮想現実と比較された現実の方は、現実ではあるのだが、あくまで想像、夢、仮想現実から遡及された上で浮かび上がる仮構された現実でしかない。本当の現実とはふたつのものの「あいだ」にある。そして、その「あいだ」とはわれわれの「あいだ」なのだ。そこでしか人は他者を真に助けることはできない。そうでなければ、遠い見知らぬ他人のままでは、同情と憐みとを寄せることぐらいしかできないだろう。竜が拒絶するものそうした助けである。「あいだ」に入り込まなければ、より正確に言えば、既にわれわれはわれわれの「あいだ」にいることに気づくことでしか、人は人を助けることはできないのだ。既に「あいだ」にいることに気づくこととは、すずが川に流された母の後を追おうとして、川に入りそうになるのを後ろから手を握って引き止めたのがしのぶくんだったとわかることであり、すずはその時点で母としのぶくんの「あいだ」にいたという事実によって示されている。他者とは目の前の相手のことではない。遠く離れた同情だけしかできない見知らぬ他人のことでもない。われわれの「あいだ」こそが他者なのだ。個々の存在は点と点で単独で存在して、共に存在しているわけではなく、共存在、「共に」の方が存在よりも先に来ている。(そばかすはひとつの点だけではなく、同時に「共に」存在している)

「U」は「YOU(あなた/あなたたち)」と単数と複数を兼ねている。「as」は「として」という意味よりは、英語としては破綻しているが、「Is(アイズ)(わたし/わたしたち)の短縮形と取ってもいいだろう。

すずが「U」で自らの現実の姿をさらして歌えるようになるシーンで重要なのは、ありのままの姿を見せることではなく、現実と仮想現実の「あいだ」で歌えるようになること。われわれがわれわれの「あいだ」にいるんだと気づかせることである。ベルがすずの姿になり、再びベルの姿に戻って歌っているのも、現実に帰る/戻ることが重要なのではなくて、常に「あいだ」にいるということの方が重要なのだ。

現実に帰ることはここではなんら重要ではないのだ。実際、すずの親友のヒロちゃんが言っているように既に「U」の世界(つまり、ネットの世界)は広大で破壊したり、なくしたりすることはできない。押井守の「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」との違いはそこにある。「ビューティフルドリーマー」においては夢の破壊がアニメの破壊と同一視されて、現実へと帰還しようとするのだが、帰還した先もまた夢の、つまりアニメの世界でしかないことが示される。しかし、それでは「あいだ」までが破壊されてしまうだろう。「あいだ」、つまり疎隔は保たれなければならない。また、竜の正体がすずの幼馴染のしのぶくんではなかった点も、新海誠の「君の名は」や「天気の子」のような僕と君との「あいだ」が問題になっているわけではないことを示している。僕と君との「あいだ」ではなく、われわれの「あいだ」でなければならない。

なぜ、「U」ではやり直しがきくと言われるのか。「竜とそばかすの姫」では冒頭ですずの母が死ぬことでやり直しがきかないことは決定的な仕方で明示されているのにもかかわらず。やり直しとはリセットではないのだ。死んだ母が生き返ることはない。では、やり直しとは何のやり直しなのか。もちろん、ここでもやり直しとは「あいだ」に立つことだ。だからこそ、すずは虐待されている子供たちと虐待している父の「あいだ」に立って、すずの母がしてみせた見知らぬ他人を助けるということが可能となるのだ。それがやり直しの意味である。リセットではなく、反復すること。映画の最後、河川敷をみんなで歩きながら、すずが歌うのもみんなの「あいだ」でである。

「竜とそばかすの姫」というアニメを見ているわれわれもまた「あいだ」に身を置いており、その「あいだ」こそが現実であると知る必要があるのではないだろうか。
古川智教

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