映画漬廃人伊波興一

プリズナーズ・オブ・ゴーストランドの映画漬廃人伊波興一のレビュー・感想・評価

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この作家が私たち観客に求めているのは宗教的な(従属)です

園子温
「プリズナーズ・オブ・ゴーストランド」

私たちが、強い親しみを覚える監督とは、自分自身の力より映画の力の方を遥かに信頼している監督だと思います。

そんな監督によって撮られた映画は、ジャンル問わず、素晴らしい出来だろうが、この上なくひどい出来だろうが関係なく、必ずどこかで救われた気がするのです。

そして自分自身の力より映画の力を信頼している監督は同時に、映画の力では出来ないもの・映画の力でやってはいけないものとは何か?に関しても、痛いほど自覚的です。

だから素晴らしい映画はすべからく被写体への(畏れ)が観ている私たちに震えるように伝わってきます。

この園子温監督、間違いなく映画の力より自分自身の力の方を信頼しています。

私は彼の全ての作品を観たわけではないからあまり偉そうな事は言えませんが初期の自主映画「自転車吐息」の印象だけは脇に置き、「部屋ーROOM」も「自殺サークル」も「紀子の食卓」も、比較的好ましくかった「愛のむきだし」から悪しき「冷たい熱帯魚」そして惨憺たる「ヒミズ」から「希望の国」に至るまで、自分が撮る映画なら何でもできると確信している彼の撮った作品には、映画そのものによって救われた気が一度もしませんでした。

ひとことで言えば、ごく普通の場面を彼の映画で観た事がないのです。
ごく普通の場面というのは、監督自身の感性や計算によって構成された構図や、被写体との距離、アングルなどではなく、監督自身でも意識することなく撮れてしまったというみごとなショットという意味において、です。

園子温の映画ではそんな場面がまったく不在なだけでなく、私たちが理解しがたいのは、彼が、その被写体への(畏れ)で一切震える事がない画面の連鎖で映画が成立すると本気で思っている点にあります。

彼は恐らく無意識下では映画監督ではなく、何かの教祖めいた自覚の方がはるかに強く根ざしているのではないか?

そうでなければ一見頓狂な「プリズナーズ・オブ・ゴーストランド」に漂う宗教的な(従属)を強いるいかがわしい香りに説明がつかないのです。