古川智教

1秒先の彼女の古川智教のネタバレレビュー・内容・結末

1秒先の彼女(2020年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

映画とは出会いの芸術である。人と人のではない。時間と時間との出会いである。人生における出来事、事象が早すぎるか、遅すぎるように、映画の中で交錯する時間もまた、早すぎるか、遅すぎるかである。

通常、我々の日常では時間と時間の出会いを直視することはできない。そのため、早いか、遅いかという風に人と時間がずれていくし、またそのせいで人と人ともずれていって、すれ違っていく。実はもう既に出会っていたにもかかわらず、そうしたずれによって出会いが忘れ去られることもあり得る。それはヤン・シャオチーの早すぎる時間が一日を喪失させ、ウー・グアタイの遅すぎる時間が一日を停止させる、その同じ一日の時間同士が浜辺に立つ相合い傘の下の二人のように出会っていることからも明らかであろう。

時間と時間が出会うからこそ、かつて失踪したヤン・シャオチーの父とも再会することができるのだ。たとえ、一方の時間は止まったままだったとしても、再会であることには変わりがない。そして、父はバスを運転するウー・グアタイに「戻ることはできない」と言う。そう、確かに時間は巻き戻せない。時間が遅い人間の利息によって止まることはあっても。戻ることはできなくても、出会わせることは映画にはできる。記憶や写真、家の中で失くしたものや、食べ物の約束など、使えるものはすべて総動員して、時間と時間を出会わせるのだ。ヤン・シャオチーの父が自殺しなかったのも、時間との出会いがあったからだ。ヤン・シャオチーの父が言う「自分探し」も、言葉通りではなく、「時間探し」のことだろう。

同じく「自分を愛せ。あなたを愛してくれる人はきっと誰かいるから」とは直接的なメッセージではなく、時間と時間との出会いの内ではじめて効力を発揮する。

現実はこうした時間の交錯で成り立っているが、普段の日常では見えなくなっているだけだ。

映画の最後でヤン・シャオチーの早すぎる時間と、ウー・グアタイの遅すぎる時間が逆転する。ヤン・シャオチーの早すぎる時間がウー・グアタイからの手紙を待つ一年という遅すぎる時間へと転移し、ウー・グアタイの遅すぎる時間(映画では直接描かれてはいないが、おそらく事故で意識を失っていたかしてヤン・シャオチーの元に来れなかったのだろう)も早すぎる時間へと転移して、二人を再会させる。時間と時間との再会である。郵便局の窓口越しに再会する二人のシーンで想起されるのはロベール・ブレッソンの「スリ」である。ブレッソンの「スリ」においても、ミシェルとジャンヌの間の鉄格子は二人の間の障害ではなく、二人の時間の重なり合いの境目をなしているように、「一秒先の彼女」の郵便局の窓口のガラスも二人の時間の出会いが接する境界線なのだ。「君のもとまで行くのに、なんと遠回りをしたことか」、遠回りとは距離のことなのではなく、時間のことなのだから、「スリ」のラストの言葉がこれほど似つかわしい映画が他にあるだろうか。
古川智教

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