古川智教

異邦人 デジタル復元版の古川智教のネタバレレビュー・内容・結末

異邦人 デジタル復元版(1967年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

なぜ、ムルソーは亡くなった母の棺を開けずに母の顔を見ないのか。ムルソーが事あるごとに口走る「無意味」だからだろうか。ムルソーの「無意味」とは、ムルソーを含めたすべてが「無意味」なのか、それともムルソー自体が「無意味」なのか。ムルソーは自らの身に「無意味」を引き受けることで、「意味」を遠ざけ、「意味」を離れた場所に保存しておこうとしているのではないか。眩しすぎる太陽のように遠く離れたところに。母の顔を見ない、母の死に直面しようとしないという選択は、母の生を現実における死に引き摺り下ろさずに生そのものとして保存しておくためになされているのではないだろうか。

ムルソーが殺人を犯した理由を「太陽が眩しかったから」とするのは、そうした遠く離れて保存された生そのもの=太陽に身を灼かれ、そうしたあまりにも大きすぎる生そのものに耐えきれなかったからではないか。殺人を犯す前に浜辺でふらつくムルソーが小さな滝の水の流れを見て、喉の渇きを癒したいのか、頭から水を浴びたいのか、何かしら渇望している様子なのも、水という生に触れようとして慄いているからではないのか。生そのものが噴出するからこそ、ムルソーは咄嗟に撃った一発目から少し間をおいて、生そのものの流れに従うように二発目、三発目と何度も弾丸を打ち込むのではないだろうか。

対して、裁判所では人々は死の側にムルソーを引き込もうとする。殺人そのものよりも、ムルソーが母を養護院に送ったこと、母の死に際して冷淡であったことに焦点が当てられるのも、母である生そのものを地上に引き摺り下ろして、現実と日常の掟に従わせることで、保存されるべき生を死に曝しているのだ。つまり、生の無垢な残酷さを社会的制約で拘束し、殺そうとしているのだ。ムルソーの殺人の裁判ではなく、社会がムルソーを殺害する殺人事件の裁判。

母の通夜での部屋の明かりが眩しすぎるのに対して、ムルソーの死刑執行前の独房が暗すぎる点もまた生の側から死の側への移行を示している。

母の死と直面せず、母の死を遠ざけて、生そのものを保存しておこうとすることと、ムルソーがマリーに愛していないと言ったり、結婚をどうでもいい問題と言い放つのも同じ理由による。マリーとの生を愛という言葉や愛という制度で拘束しようとせずに「無意味」を自らに引き受けることで、言葉にされない愛を保存しているのである。

死刑執行前の独房で、神の許しを拒否し、人々から憎悪の罵声を浴びることを望むのは、今まではただ流れるままにムルソーの前に降りかかってくる「無意味」を引き受けるだけだったムルソーが、敢えて「意味」を押し付けてこようとする人々をムルソーの側に引き寄せて死ぬことで、今度はムルソー自身が眩しすぎる太陽のように生そのものとして保存されようとしているのではないだろうか。
古川智教

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