まぬままおま

静謐と夕暮のまぬままおまのレビュー・感想・評価

静謐と夕暮(2020年製作の映画)
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「(…)どこまでも続く、深淵の心が、列車のノイズで満たされた世界に蓋をする。その繰り返しの中で、今日も、日常へ戻っていく。この世界にはない日常。自分だけの日常。わたしが覚えていること。みんなが忘れていくこと(…)」

劇中に流れるラジオの声である。

「隣人」の死という出来事を通して、「そういえば」という仕方で思い出される記憶/日常。
そういえば父と釣りにいった、母は病床に臥していた。父母はビンタン食堂で梅酒を飲んだと聞いたことがある。そういえば働いているバイト先で人生に悩んでいる人がいた、泥酔する写真屋のお兄さんがいた。そういえば高架下に老人がいた。電車の音がうるさかった。日常には静謐だけど確かに音が鳴っていた。夕暮れは美しかった。そういえば、そういえば、そういえば、、、。

そういえば私も本作で映し出される三条商店街を自転車で駆けたのを思い出した。あのときみた映画、友人との出来事、学生だった私の日常。自分だけの日常を思い返していた。友人は忘れているかも知れないし、私自身も忘れていることがたくさんあると思う。でも大切な記憶/日常。そんな自分だけの日常を、本作は呼び起こしてくれるのだった。


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と、肯定的に捉えられる反面、疑問を呈したくなる点は往々にしてある。

日常の鮮やかさを取り戻す環境音は、確かに録音されている。でも音のバランスは?静謐を際立たせるため、または対称化するための音は、フィクションとしての日常を嘘と化す。
あとセリフは?セリフを極限まで減らすことは問題ではないが、全く聞こえない。ラジオの音もヴォイスオーバーも。本作で聴かせたい「声」はどこにあるのだろうか。

一番の疑問は登場人物の描き方である。例えばカゲは男か女か分からない中性的な人物として描かれており、本作の登場人物は「誰でもない誰か」なのである。それは本作を人物中心とした作品から死による喪失と記憶を中心にした作品にしたいという監督・制作側の意図によるらしい。その意図や死、記憶といった概念を扱うことは、それとして問題ない。

だが私が本作でいいと思ったアクションは、カゲが胡瓜の漬物でご飯を口いっぱいに頬張ることとリアカーから落ちた本を拾いに小走りする姿である。

映画はイメージにすぎない。されど私たちがみようとするものは、身体がある登場人物・カゲの姿なのである。登場人物には身体があって、その身振りが「誰でもない誰か」から代わりのいない唯一の人物にさせる。故に映画の空間に存在し、他者と関係が生じる。そしてその関係がドラマを起こす。そう「誰でもない誰か」であることは結果的に物語にドラマを生じさせないことにつながる。ただ本作ではドラマがないというドラマをやろうとしているのかもしれないし、映像の断片を私=鑑賞者がドラマ化させることを意図しているのかもしれない。と言うか、自分だけの日常を思い返すとはそういうことだ。けれどそれは、物語でドラマを生み出すことを放棄しているとも考えられてしまう。

「誰でもない誰か」の映画で私=鑑賞者だけの日常を思い返す。このように抽象的に言えること。けれど〈私〉にも身体があって、身体に根ざした記憶を思い返し、日常を生きている。カゲが野球ボールの匂いを嗅ぐように、自転車に乗るように。それならば身体を伴わないことを意図する物語に〈私〉の記憶/日常を思い返すよう働きかける力がどれほどあるのか私には分からない。

もうひとつ身体性について言えば、脚本をつくり、カメラを向け、編集などをしてひとつの作品をつくろうとする身体はどこにいってしまったのだろうか。それも「誰でもない誰か」がつくったものでよいのだろうか。おそらくそれは意図していない。しかもフレーミングされた画が、カメラの動きが、ショットの連なりーそれはどう並べられてもいいわけではなく、確かな意志が介在しているーが、否応なしに身体を滲み出してしまっているはずである。しかも監督としての特権を固持したまま、「誰でもない誰か」の物語が、〈私〉だけの日常に触れようとするのは、どうなのだろうか。

以上、批判的に述べてしまったが、私だけの日常を思い返すことはできたし、きっと本作をみた鑑賞者の心に触れる瞬間はあるはずだ。そして身体を伴っていることに自戒を込めて、日常を生きていたい。