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静謐と夕暮
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静謐と夕暮の作品紹介

静謐と夕暮のあらすじ

写真家の男が川辺を歩いていると、川のほとりで衰弱している老人に、何やら原稿の束を渡す女がいた。翌日、再び男がその場所に行ってみると、その原稿を読む人々がいた。その原稿には、渡した女のものと思しき、この川辺の街での日常がしたためられている。———ある日、いつものように川辺にやってききた女は、見知らぬ黄色の自転車と川辺に座る男を見た。数日後、女が住むアパートの隣室にその川辺の男が越してきた。夜な夜な隣室から聞こえる、男が弾くらしきピアノの音を漏れ聞くうちに、その男の生態が気になり、毎朝、黄色の自転車に乗って出ていく彼の後ろを追いかけることにした。そんなある日、隣室の男が失踪する。

静謐と夕暮の監督

原題
公式サイト
https://mitei10kisei.wixsite.com/silence-sunset-jp
製作年
2020年
製作国
日本
上映時間
136分

『静謐と夕暮』に投稿された感想・評価

KUBO

KUBOの感想・評価

3.0
映画祭でご縁があった俳優さんの新作『静謐と夕暮』を見にシネマロサへ。

サンパウロ国際映画祭で新人監督コンペティションで上映された本作。

まず冒頭から「台詞」がほとんどない。30分経ち、1時間経っても、ない。ラジオの声、テレビの声、居酒屋での客の愚痴、ところどころ「音声」は入っても、それは環境音の域を出ない。

後ろ姿、後ろ姿、後ろ姿。カメラは執拗にキャストを後ろから捉える。たまにあっても横顔。正面から捉えたキャストが話すシーンはほとんどない。

独特の作風、独特のカメラワーク、そして難解な編集。

一見バラバラだったそれぞれの登場人物たちが、最後で冒頭のシーンにつながり、ここまで封印していた言葉たちが流れ出す。

ただ、私もかなり集中して見たつもりなのだが、HPにある「あらすじ」を読んで「え?そうだったの?」ってなったし、監督の梅村和史さんのご挨拶にある「思い」まで伝わらなかったのは事実。

これは勝手に、全て理解する映画じゃなく、流れる日常の光景の中から何かを感じ取れればいい映画なのだろうと解釈した。

実験的、挑戦的なアート作品ではあるが、起伏と台詞のない映画で136分は長い。

お目当ての入江崇史さんは、やはり絵になる俳優だ。
[] 60点

ロサの音響が悪いのか映画自体が悪いのか判断しかねるが、どうも音の大小とかの居心地が悪くて恐らく100分ほどはむにゃむにゃしていた。上映後に監督が言っていた通り、本作品は亡くなった人について、記憶=過去とそれを託された人々=未来を描く作品である。台詞は極限まで少なく、中心となるカゲに至っては一つもない。そんな静かな作品なんだから余計に音には拘ってほしかったんだが。カゲが天井を向いて涙を流すシーンが好き。劇場で入場者特典として、カゲが貰った写真屋の封筒が配られてて、公開規模の小ささから来る映画との距離感の近さを感じるなどした。
「(…)どこまでも続く、深淵の心が、列車のノイズで満たされた世界に蓋をする。その繰り返しの中で、今日も、日常へ戻っていく。この世界にはない日常。自分だけの日常。わたしが覚えていること。みんなが忘れていくこと(…)」

劇中に流れるラジオの声である。

「隣人」の死という出来事を通して、「そういえば」という仕方で思い出される記憶/日常。
そういえば父と釣りにいった、母は病床に臥していた。父母はビンタン食堂で梅酒を飲んだと聞いたことがある。そういえば働いているバイト先で人生に悩んでいる人がいた、泥酔する写真屋のお兄さんがいた。そういえば高架下に老人がいた。電車の音がうるさかった。日常には静謐だけど確かに音が鳴っていた。夕暮れは美しかった。そういえば、そういえば、そういえば、、、。

そういえば私も本作で映し出される三条商店街を自転車で駆けたのを思い出した。あのときみた映画、友人との出来事、学生だった私の日常。自分だけの日常を思い返していた。友人は忘れているかも知れないし、私自身も忘れていることがたくさんあると思う。でも大切な記憶/日常。そんな自分だけの日常を、本作は呼び起こしてくれるのだった。


***
と、肯定的に捉えられる反面、疑問を呈したくなる点は往々にしてある。

日常の鮮やかさを取り戻す環境音は、確かに録音されている。でも音のバランスは?静謐を際立たせるため、または対称化するための音は、フィクションとしての日常を嘘と化す。
あとセリフは?セリフを極限まで減らすことは問題ではないが、全く聞こえない。ラジオの音もヴォイスオーバーも。本作で聴かせたい「声」はどこにあるのだろうか。

一番の疑問は登場人物の描き方である。例えばカゲは男か女か分からない中性的な人物として描かれており、本作の登場人物は「誰でもない誰か」なのである。それは本作を人物中心とした作品から死による喪失と記憶を中心にした作品にしたいという監督・制作側の意図によるらしい。その意図や死、記憶といった概念を扱うことは、それとして問題ない。

だが私が本作でいいと思ったアクションは、カゲが胡瓜の漬物でご飯を口いっぱいに頬張ることとリアカーから落ちた本を拾いに小走りする姿である。

映画はイメージにすぎない。されど私たちがみようとするものは、身体がある登場人物・カゲの姿なのである。登場人物には身体があって、その身振りが「誰でもない誰か」から代わりのいない唯一の人物にさせる。故に映画の空間に存在し、他者と関係が生じる。そしてその関係がドラマを起こす。そう「誰でもない誰か」であることは結果的に物語にドラマを生じさせないことにつながる。ただ本作ではドラマがないというドラマをやろうとしているのかもしれないし、映像の断片を私=鑑賞者がドラマ化させることを意図しているのかもしれない。と言うか、自分だけの日常を思い返すとはそういうことだ。けれどそれは、物語でドラマを生み出すことを放棄しているとも考えられてしまう。

「誰でもない誰か」の映画で私=鑑賞者だけの日常を思い返す。このように抽象的に言えること。けれど〈私〉にも身体があって、身体に根ざした記憶を思い返し、日常を生きている。カゲが野球ボールの匂いを嗅ぐように、自転車に乗るように。それならば身体を伴わないことを意図する物語に〈私〉の記憶/日常を思い返すよう働きかける力がどれほどあるのか私には分からない。

もうひとつ身体性について言えば、脚本をつくり、カメラを向け、編集などをしてひとつの作品をつくろうとする身体はどこにいってしまったのだろうか。それも「誰でもない誰か」がつくったものでよいのだろうか。おそらくそれは意図していない。しかもフレーミングされた画が、カメラの動きが、ショットの連なりーそれはどう並べられてもいいわけではなく、確かな意志が介在しているーが、否応なしに身体を滲み出してしまっているはずである。しかも監督としての特権を固持したまま、「誰でもない誰か」の物語が、〈私〉だけの日常に触れようとするのは、どうなのだろうか。

以上、批判的に述べてしまったが、私だけの日常を思い返すことはできたし、きっと本作をみた鑑賞者の心に触れる瞬間はあるはずだ。そして身体を伴っていることに自戒を込めて、日常を生きていたい。

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