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あいつと私のotomisanのレビュー・感想・評価

あいつと私(1961年製作の映画)
4.5
 1960年の春から秋、これ見よがしセレブ慶大生裕次郎君の日本人上位0.0000001‰的先進人間像を公開する。日本の中でも一足先に豊かになった人々における、1962年的新しい人間の姿、家族の姿を黒川家を例に描く。また、裕次郎君を軸にその友人たちや家族が、さらには黒川家の面々さえも、裕次郎君に共鳴反駁し時に振り回される映画。ありえないとは言うも愚かな、映画ならではのシミュレーション物語。それでもあり得ないが止まらない人には、例えば、裕次郎君のような男がその後増えれば、日本はどんな社会になるだろうとか、世界で日本のプレゼンスはどうなるかとか考えて御覧なさいなんてお勧めできるかもしれない。そして今の日本の様子と併せてお考えなさいと。もっともその前提が、いい種馬選びにかかってたとすると噴飯もの。いいオチを用意したもんだが、手放しには面白がっていられないか。
 製作の1961年とは、安保締結後のこと。左派の街頭行動は静まり、むしろ右派テロ事件、労使関係改善、保守政権の安定化、所得倍増案、重工業の地方分散、産業構造の変化、加工貿易増進、東京計画など、市民が社会が政治への関心から離れ、経済成長で社会を暮らしを豊かにする事に本格的に目を向けだす時分。アメリカみたいな普通の人の見上げるような暮らし振りが、憧れから手を伸ばせば前髪が掴める?くらいに思える、で何をしたらいい?くらいの到達への具体性が出てきた頃だ。
 政治を離れ見返す自分。ぽっかり穴が開いた時代に自分の、人の心のありよう、個人的生活、対人関係、社会への態度もどう変わるか問うてみたくなる時期なんだと思う。新しい人間像、例えば植木等のモーレツ男が庶民版なら、本作の裕次郎はセレブ版だ。植木がアッと驚く代物を世界の果てまで日本製で売り込めば、若大将は上流と中流の境で軽々と独立自存、立身の道を行き、裕次郎は Oh Greatと億に一人もいないような人物像を清新さと不可解さも顕わに屹立する。こうなると笑い話?止まりにしか感じられないが、当時盛んに見られた映画なようで、こんな男にどんな心地よさだか楽しみがあって映画館に通ったんだろう。もっとも見る前と見た後の気持ちの違いこそ気になるところだが、知る由も無い。
 こんな新日本人(映画で確かめられよ)を産む黒川家とは、カリスマ・ヘアデザイナー、自立した女性のカリカチュア。自我画然意志強固、遂には豊かな経済力を背景に、子の優秀な実父を選定し、執事として夫(愛してるからこそ夫なのだそうで)を採用し、アクセサリーとして同伴相手を選好し、息子の"個人レッスン"に腹心をあてがい、恐らく結婚相手も手元で吟味育成、熟した後添わせるつもり。適材適所、アウトソーシング、効率経営で遣り繰りされる。係累を持たず、外に腕一つで立ち位置を確保し、内に息子の実父の立ち返りなどと他者の干渉を嫌う。将に烈女で無ければ出来ない。すごい息子の育成プランはどんな旧家大家にも昔からある事で、その女王バチ一匹版に驚くのも変かもしれんが、旧家大家と違い継ぐべき家業も家産も無いあたりが新しい。つまりすごい息子の自由度が全く違うというわけだ。無茶な設定に見えながら、実は女史一代の城、黒川家も所詮、継がれるべき何かでは無く、暫時係留の場という以外、新しい男子の形成プラットフォームに過ぎず、女史引退後は腹心に譲るでも店を畳むで雲散するでもよいのだ。この万事、最適便宜獲得だけで最大効率化した運営で「家」を無意味とし、最高男子裕次郎君を訓育する辺りがこの話の妙なのかもしれない。
 共鳴と反発の末、結局映画に弄ばれた感もあるけど、絵空事的新しい人間像が無駄吠えとも思わない。例えば、農地解放に伴って資産の多くを失った地主層では農産とその関連事業での活路を見切り、特に次三男らは高学歴を支えに俸給生活での自立を目指す。彼らは相続分与も魅力だが、「家」を離れ、身一つ才気一つで自分の一家を成す機会を得るのだ。また例えば日吉の丘の上でただ学位と推薦状を得るばかりでない学生生活の多端が話中にある。学内外で、関心事で、仕事で、また友人との交流やその関りで、更にその家族の、またその先で知己を得、そこに、生きる術や生きる甲斐を探る一端を求める。そんなことの史上最良の場である事に気が付くか否かが映画代を無駄にするかどうかの境目だ。また、どエライ黒川家の息子らのセックス論に惑わされていては有料放送にかける金も泣こうというものだ。
 こんな映画を見て、遊んで過ごせる4年間に浮かされて目指す大学もあろうけど、4年を無駄に使うバカの篩い落としで落ちる者には広い世間の別の舞台を任すとして、精々使えるコネを使い倒すほどの強かさを持つ事、狭い学校で得た知恵を封じて馬鹿を承知で無知を発揮する事の推奨もポイントだ。そうやってはみ出してみて知る別世界の、農家の次三男の飯場暮らしや安保デモへの巻き込まれやデモを騙る悪行に泣く事も、友の不幸も利害の秤かけに霞ませてしまう情のもつれも巡り巡って自分のうちそとを明らかにする事につながる。ベンツや別荘は法外としても、何なら学割も使えるフィールドワークに損はない。
 それにしても、ここで外の世界と割り切った事物の大きさは実体に比べあまりに過小だ。しかしこれは、それら広大深遠な遠景に言及し意見を寄せるのはその筋の別の話に任せ、諸君らは自らの才と運で自らを豊かたらしめよと言う事だ。果たして裕次郎君を試すかのように、その母が隠してた実父との初対面が、事実を知りつつ知らぬ気の裡に叶う。これを利するかどうかは後の話として、驚くべき事への直面にかえっていずみへの求婚でカウンターをかます。この物語のいいところは唯一こんな様々に意表を衝いて止まぬ姿勢にあるのかも知れない。それと降って湧かせたこんなエピソードに実は高止まりの裕次郎君の日常を壊す糸口があると示唆される。すなわち、実父阿川が語る裸一貫の米国暮らしである。日本がどうあれ、まだまだ世界の知った事では無い以上、一億に一人の男が外に出てく意味は大ありなのだ。どくとるマンボウや非合法ヨット青年が出てったように、移民船が未だ移民ばかりの時代、外貨持ち出しが嫌われた時代、推薦状無しでおん出ればいいのだ。さすがに女王バチの甘い専横にも倦んできたろう。精二父ちゃんも一緒に出るといい。
 さて、それあってか否か2年後、大阪の青年になって、太平洋ひとりぼっちになるではないか。よくしたもんである。
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