第61回芥川賞を受賞した庄司薫の原作を、森谷司郎監督で映画化。
主演が、後の東映の社長にまで上り詰める、岡田裕介です。
時代は学生運動盛んなりし頃。
1968年の暮れ、主人公の薫君は東大紛争のせいで受験するつもりだった東大入試が中止になってしまった。
おまけに、家で躓いて転んでしまい爪を剥がしてしまうこととなり、愛犬は死んでしまう。
ついてない一日のはじまり。
薫君の一家はいわゆるブルジョア家庭で、兄も両親も高学歴。
そんななか、東大入試を辞めようかと思った薫君は、幼馴染でガールフレンド、「舌嚙んで死んじゃいたい」が口癖の、由美に話そうと思ったのだが・・・
私のちょっと上のお兄さん世代の青春。
全共闘による学生運動にはまるで興味のないノンポリ高校生薫君。
気になるのは、流行歌やセックス、コマーシャルに、テレビ文化。
それから、ファッションとしてのインテリ。
ガールフレンドとの会話でも、形而学的な自殺が云々だとか、哲学者の言葉などが出てきますが、そのインテリぶった会話のほとんどは、ゲバ棒を持って暴れる若者たちと同じように、ファッションとしての意味合いが強かったのだなと感じます。
本気で思想に共感して学生運動に没頭した若者は、一体どれくらいいたのだろう。
森谷監督は、このようにガチっとした思想をもたず、陽炎のように時代を生きた若者の姿を、散文的ともいうべき演出で描き出します。
それが面白い効果を生み出していて、例えば、由美と二人で食事をするシーンで、夜景を眺めながら企業の看板を読み上げるシーンがあるのですが、その企業名を読み上げるバックに当時のCMの音声が流れたりします。
いきなり、ピンキーとキラーズが登場したのには驚いた!
薫君の友達が、延々と持論を述べながら、柏餅を10個ぐらい食べ続けるのは珍シーンだし、由美との電話のシーンでの画面2分割は、やってますねえとニヤリとしてしまいます。
近所のおしゃべりなおばさん(山岡久乃)がひたすらしゃべり続けるシーンを、鳥の鳴き声に変えてしまう演出も面白い。
そういえば、ミロシュ・フォアマン監督の、『アマデウス』にもこんな演出があったような。
足のケガを診てくれた女医さんに性の衝動を抑えきれなくなる気持ちも共感できますね。
気持ちを抑えるのに必死です。
喫茶店(?)で流れるバロック音楽が、当時最先端だったウォルター・カーロスによるシンセサイザーによる、“スイッチド・オン・バッハ”だったりするのもいいですね。
因みに、この音楽は、スタンリー・キューブリック監督も興味を持っており、作者のウォルター・カーロスはその後性転換して、ウエンディー・カーロスとなりベートーヴェンなどを演奏し、『時計じかけのオレンジ』のサウンドトラックに参加しています。
この時代を語るのに欠かせないヒッピーによるゴーゴーシーンももちろんあります。
フリーセックスに憧れていたこの時代の若者たち。躊躇なく服を脱ぎます。
時代を切り取った東京のロケ風景が、本作の文化的価値を高めますね。
タイトルの「赤頭巾ちゃん」は、物語の終盤で旭屋書店に出てきます。
原作は、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』に酷似していると指摘されたのだという。
原作者本人は否定していましたが、何らかの影響を受けていることは間違いないような気がしますね。
考え方などがずいぶんとお兄さんだなあと思っていたあの世代の若者達ですが、案外私たちの世代と日常は変わってなくて、それは今の若者も同じなんじゃないかなあと思ったり。
なんでもない毎朝食べる普通の朝食のような作品ですね。
味付けは違いますが、『いちご白書』(1970)に近いものを感じました。
制作年度も同じですね。