阿房門王仁太郎

ジャスティス・リーグ:ザック・スナイダーカットの阿房門王仁太郎のレビュー・感想・評価

4.5
 「生きることは変わることだ フラッシュもサイボーグも人間も科学も変わっていくだろう 正義も共に生きるだろう だがお前(ダークサイド)は変われない 組み込まれた予定があるだけだ」
 この映画は一度バラバラになったヒーローたちが結成して死の欲動の具現化(或いは『幻魔大戦』の幻魔のような破滅の為の破滅を願う純粋な悪)を打倒すると言う作品だ。作品の冒頭でスーパーマンは死に、「ジャスティス・リーグ」と言える組織の構成員はバットマンとワンダーウーマンしかいない。バットマンが目星をつけたアクアマンやサイボーグは乗り気でない。
 然し、正義は改めて燃え死の欲動の浸食に抗ってみせる。フラッシュは未来を生きる為に「過去を塗り替え」、サイボーグは逆に己を生かしめた時間と言う名の「歯車」と向き合い戦いを肯定し「俺は醜くない、一人じゃない」と理想だが偽りの両親と五体満足の頃の自分の幻覚を打ち破る―即ち、現在の己を理想像ではなく墓石と灰になった父の影、サイボーグとなった自分と言う傷の見える現実で己を規定する―。
 冒頭の文は『風の谷のナウシカ』の終盤の台詞のパロディであるが、これに続く言葉は原作と違って「生を否定しているから」だろう。サイボーグもフラッシュも過去と言う桎梏の存在を(試練と見るか土台と見るかは異なるが)肯定し、善悪の彼岸に至る事を拒否し、飽く迄此岸でヒーローとして苦闘を続ける。『ナウシカ』で主人公が徹底して歯向かったのは世界を普遍的に計画の所産と見做し(パルパティーンのような)虚無と化した生存の為の科学技術だとするならば、この『ジャスティス・リーグ』で抗って見せた相手は何処まで生の価値を貶め破滅の安寧にこそ価値を見出す絶対的なニヒリズムであろう。
 飽くまでヒーロー映画と考える向きもあろうが、ここまで生の価値をある種の正義とまであっけらかんと讃えるパワーに溢れた映画は稀有ではないだろうか。「CGまみれの画で生の価値とか言われても…」との反応もあるかも知れないが、過去と未来、それらを相対的に見つめその渦中の生を見る人間観を表現するのにCGこそが必要だったを今なら言える。
 ザック・スナイダーの神話に傾いていて必ずしもシリーズものに向いている映画とは言えないが大変好い物を見たと思う。この生の肯定こそ杜口さんの言う通り実にアメリカ的だろう。
阿房門王仁太郎

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