Habby中野

14歳の栞のHabby中野のネタバレレビュー・内容・結末

14歳の栞(2021年製作の映画)
3.6

このレビューはネタバレを含みます

リアルと作為の、あるいは人間とカメラの、見られる側と見る側の、切実なバトル。そしてそこで起こるハレーション。カメラに向かって、身構えながらも自らの言葉で、それを発する際の逡巡さえ屈託なく表出する子どもたち。そこに対峙するカメラは、─その権威をごまかす機能としてのナレーションがないことでより一層─身を隠すことなく、”大人”としてにそこに対峙する。屈託ない子どもの姿や言葉に対する、まるで屈託しかない大人のカメラ。その撮影素材を自由自在に、または持て余すように編集された映像。自然に対する作為のありようは、そのまま子どもに対する大人の姿勢に─カメラだけでなく、この映画を眼差す観客にも─置き換えられる。どこまで意図的に配置しているのかは分からないが、そうした作為、子どもの瞳に映る大人のように、カメラにカメラが映っているその様は、映画のテーマに共鳴しつつも、ドキュメンタリーという存在自体への問いかけへと跳ね返る。誰が、誰にカメラを向け、どのように語りあるいは語られずにいるものを、われわれは見ているのか。
”リアルな”と簡単に形容してしまいそうなものを人が目を向ける時、それは決して自然そのものではない。そこに絶対的距離があること、それを掘り起こそうとすると発生してしまう作為。「14歳」の自分の記憶を重ねながら、それでも同化しない他人の姿が透かし見える。この交差のしなさ、届かなさ、どうしようもなさを認めることでしか、エモによる溺死から逃れる術はないのではないか。この映画は波打つ水面のギリギリにある。でもまだ溺れてはいない。映画は、被写体の子どもたちが画面外に地続きでなお存在していることを強調して終わる。鑑賞者の”エモさ”の外に、本当に自然な、本当に”ありのまま”なものがある。ドキュメンタリー=ありのまま、にかまけないでいたい。
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