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邪魔者は殺せのotomisanのレビュー・感想・評価

邪魔者は殺せ(1947年製作の映画)
4.2
 フレンチ・ノワールのつもりでジャン・ギャバンを待っていたら、深夜0時終演となってしまった。Rankの銅鑼の音でおかしいと思ったら実は英国の"Odd man out"が正体だった。
 で、それは「爪弾き者」IRAの某支部長ジョニーの凶運を巡る話である。監督はJ.の凶運をメンバー皆に振り分け、強盗殺人の末撃たれた当人もほぼ全編意識混濁という中、逃走中関わりを与えてしまった人々の困惑や欲望の的となるばかりかと思えば、遂には革命家らしからぬ慈悲の心を持つ事にたどり着かせる。
 なんの血迷いかと思うが、関わる側からすれば双方の組織からの後難を恐れて警察に売りもしないし助けの深入りもしない。それでも追い出し際のひと壜の酒精であったり、酒場が締め切る個室であったり、先ずは教会に掛け合うトリ男だったりするのだが、いったい慈悲の欠片と見せる積りなのかそんなつもりは更々無いのか知れない描き方がなんとも消化不良を招きそうで困る。
 なんのなれの果てか韜晦なトリ男やJ.の目力に魅入られる目描き画伯とブラック医者の取り巻きまでできて反英抵抗運動の欠片も消え果てそうななか、慈悲という事を思い出しながら、キャスリーンの慈悲に出会っている事も分かっているのかどうか知れぬうちに追い詰められ死ぬ。
 長年、それを二人の心中と理解してきたが、そうではないようだ。キャスリーンの2発は自らに向いておらず、警察の発砲を促すための誘いであったとみるべきだろう。たとえ心中であっても二人は警察に殺されたと言い伝えられる事だろうが、それは死亡所見上も二人が英国に殺された事になるのを証示するものである。しかし一方でキャスリーンにはどうしてもJ.を撃てない心境、あとほんの数十歩、数分で逃げ切れるかもしれない未練か何か決着の付かない思いがあったものだろうか?
 ロンドンでSirを冠する俳優の息子であった監督とすれば、この場面が英国への敵愾心を高める表現となってしまうのか、キャスリーンの作為無いただただ迷いの末の選択であったとしたかったのか、前者の件が避けがたくあろうとも後者の事とて当然あるべき事として通したかったのだろうか。ただその他方、誰にも知られる事なく潰えたJ.の心の改まりをどう収容されるべきであろうか。譫妄状態の中よみがえった子どもの頃からの記憶にあった神父の言葉に思い当たる人々のことが呼び覚ます「慈悲の心」を受け止め得る誰かがいたとすれば、この映画を観る英国とアイルランドの人々であったろうことは確かだ。
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