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ひらいてのshishiraizouのレビュー・感想・評価

ひらいて(2021年製作の映画)
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女が女を奪う、共感困難、という予断からドワイヨン『ラ・ピラート』のような映画かと身構えましたが、あのかしましい烈しさはなくて、どこか静謐。
『ラ・ピラート』の謎の少女、ロール・マルサックが髪をオールバックにあげ、額を晒して強調されていた強烈で揺るぎない視線。それとは対照的に、前髪がおろされていてその庇のしたからのぞく山田杏奈の瞳は、強いのにどこか揺らいでいて、ゆらぎのなかの弱さがある。

何度かある山田杏奈が自転車を漕ぐ横移動のシーン、ふつう青春映画ではやるせないエモーションが爆発する場面なのですが、この映画ではぎくしゃくと不器用にペダルを動かす愛=山田杏奈が引いた視線でただ映されていて、静的な印象 ( 自転車のサイズが大きくて彼女に合っていないのは、2ケツする場面で多田が漕ぐためそちらに合わせたのか? ) 。運動感と、感情(心理)が連結していない、虚脱のなかの意志、といった感覚があります。
逆に、正面から自転車に乗る山田杏奈をとらえた場面では、運動感は失調するかわりに、ある種の切迫した感情が画面に灯る。正面的画面--橋のうえでの愛と美雪とのカットバック、クライマックスの愛とたとえのカットバックには、“ほんとう”に接したときの感情が充填される 。

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空たかくある視点が軽やかな音楽とともに、なめらかに地上に舞い降りると、サウンドトラックだった楽曲はダンスに伴走する粒の荒い環境音にリアルの層を変える。
と、溌剌と踊ることへの意志を不意に失ったように、ダンスの渦を離れ、建物の陰へとむかう山田杏奈の歩みがジャリ、ジャリ、と敷かれた大粒の石を踏む現実音をたてる。調和ある旋律が、あっという間に地に這う現実的で不規則な響きに変転する。その不穏へと変調する映画リズムが見事で、この暗い瞳をもつ少女に空のものだった視点は移り、彼女の視線は、地に伏す少女をとらえる。
第三者の視点→愛→美雪と、「視線は主体→客体へと、一方向のみに向かう」という全編を貫くモチーフが、早くもあらわれます。

原作では、たとえの隠された恋人として美雪を特定し、策略をもって接近したあとに、愛が美雪に口うつしでジュースを飲ませる挿話がくる。そこでは突飛だが説得力ある行為でしたが、映画冒頭のこのシーン、倒れた同性の美雪/芋生悠に唇を重ねる愛/山田杏奈の行為の唐突さには、理解しづらい異物感がある。心理や共感、理解より先にまず行為がある『ひらいて』の山田杏奈の、さまざまなアクションを、以降、一拍遅れるようにして私たち観客は追うことになる。
山田杏奈がクラスの前方の席をじっと見るというアクションがまずあり、その瞳のつよさに、遅れて彼女の恋慕とその対象が現出する。

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〈いつ魔法がとけるかと怯えている。女の子でいることは魔法だし、人目を惹く女の子でいることは、もっと魔法だから。〉
そのようにちゃんと自覚もある愛は、時限の無敵を、巧みに生きている。その巧みさのうちに燻っている、対象のない、計算のない、情熱、嫉妬、焦燥、執着、、

そして彼女の瞳は、対象(たとえ)を見つける。
見つめること。映像が、視線が、その対象を映し出すと、そこには全的な肯定しかない。視線/画面がある存在をとらえるとき、部分的な批判が表象されることはなくて、常にあるままが焼き付けられる肯定作用が発生する。見ることの宿命。見る主体は、同時に自分の肯定する対象から見られないことで、存在の全的な否定に曝される。
その苛酷さが、彼女の暗い瞳となる。

たとえの視線が、全的に肯定するもの。美雪。
愛は、彼女と同一化することによって、たとえによる肯定の客体たらんとする。針を身体に刺す痛みによって美雪を生理的に模倣する。映画をともにみる(同一方向を「見る」主体として重なる)。そして肌と肌をあわせて粘膜と粘膜により繋がり溶解し愛される客体となる・・
しかし理屈はそうでも、それで自分がたとえの愛情の客体と化すとは、愛も本気で信じているわけじゃない。無理くりでも何かをせずにはいられない、その衝動は、整合的な理屈を破壊し、まず行動が先にくる。愛のすべての動作、すべての行為、つまり生きることそのものが愛(LOVE)のアクションとなる。それは周囲には無軌道で、不可解なさまに映るでしょう。
〈でも、生きてるって感じがする。〉

色を塗られ、花びらを装った紙を付着させた、巨大なハリボテの、満開の桜の木は、視線によって桜と認識されることのみを目指したモノ。この〈見られるだけのモノ〉(主体/客体の固定化されたもの)を愛は蹴りたおし、否定する。

その前段で、第三者(先生)の導きによって愛とたとえ(と桜の木)は写真のフレームにおさまることで、見る/見られるに分断されていたものが並列化される。ここに主体/客体固定化のゆらぎが予兆されていた。
それまで引いたフィックスの多かった画面は、カメラがおおきく揺れ、桜の木を否定したアクション(固定化した客体への否定動作)を為した愛のもとへたとえが現れ、愛がある言葉を彼にかけると、彼は彼女に触れて、印象の強烈な正面のカットバックで見つめあう。画面は躍動し、たとえの顔、愛の顔が交互に映り、フェイクの桜が舞い散り踊る。なんとも知れん表情の山田杏奈!主体/客体はシャッフルされ、欠落のある人と人同士が、そのままの存在を肯定する瞬間。
そこで愛が語りかけていたのは、(美雪の身体的ハンディキャップについてたとえが囚われている件についての話で)私がもし両目を針でついて、盲目になったら世話してくれる?愛するってそうじゃないでしょという諭し。視線(主体)を失うと盲目(客体)化し=愛される対象に転化する、という観念の欺瞞を、攻撃的でなくやさしく示して、愛は硬直化した人と人との関係性の矢印/線を、もうすこしやわらかいものとした。

山田杏奈が多田とミカに、二人はセフレなのかと問うと、ミカはそんな自分たちをバカだと思うかと問いかえす。真っ当な男/女、彼氏/彼女という「硬直化した関係性」の規範の線を、訥々とやさしく触れるような口調で愛は解きほぐす。行為があって意味や気持ちが後からやってくる、傷付いた心のリズムに愛は同調する。美雪との関係においても、肉体的接触があり、遅れて意味や動機付けが現れる。その繰り返しが、愛と美雪との名付けがたい絆となってゆく。

ラスト、美雪からの手紙を読んだ愛は、また一緒に寝ようと言うために立ち上がるのではなくて、まず、動いて美雪のそばへ行きたいという衝動が生じる。教室から出てゆく、授業中の他のクラスにズカズカ入り込んでゆく、衝動にまかせてまっすぐに淡々と規範を無視して動く愛の心の痛みが動きとともにきらきらと散乱してゆく、愛の言葉への美雪の反応は示されず、もはや遅れてあとからくる意味を失ない、純粋なアクション/衝動の途上としての、山田杏奈の声と動作が投げ出される。
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