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ふたり~あなたという光~のQTakaのレビュー・感想・評価

ふたり~あなたという光~(2021年製作の映画)
3.0
障がい(害)者を家族に持つということについて、考えるきっかけになるだろう映画の一本。
私たちの生きているこの社会にはいろいろな人が居て、いろいろに生きているはずなのに、”ふつう”に生きる事ばかり求められている。
”ふつう”が、最重要課題なのだ。なぜだろう?
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”統合失調症”と病名が有れば、そうなのだと分かった気になる。
でもそれは、何かが分かったことにはならないし、実際、その人のことを何も示してはいない。
映画は、一人の女性(希栄)をその病名の本に描いている。
そして、その家族も、その病人を抱えているという表現だ。
家族の会話の中に「ふつう」と言う言葉が出てくる。
”ふつう”とは何だ。
私たちは、とかく普通であろうとする傾向がある。
”ふつう”という集団に入っていれば、安心できるのであろう。
あるいは、そこに居場所を見つけた時、安心するのだろう。
でも、誰が”ふつう”を決めるのだろう。
姉が”ふつう”で、妹が病を抱えた障がい(害)者なのか。
そこで区別される人の姿とは何か。
”ふつう”ではないと烙印を押されるのは何か。
何故、その線引きが必要なのか。
社会が、その存在を区別したがっているのだと思う。
それぞれを、それぞれのままにしておかない意識が社会の側にある。
何処かに、収めようとする。
なにかに区分しようとする。
収まることが、正しいのだと教えられる。
勢い、私たち自身も、そこに収まろうとする。
まるで、イス取りゲームのように。
ホントは、どの区分にも収まらないはずの自分なのに。
一層のこと、何処にも収まらない一人になってしまう方が、よっぽど生き易いかもしれないのに。
”ふつう”とは、そんな社会が生み出した幻想だと思う。
みんなから外れないように、一人にならないようにと思う余り、拠り所としての”ふつう”を、架空の状態を作り出しているのだろうと思う。
そんな存在では無いはずの自分に嘘をついているのかもしれない。
それぞれが、それぞれに生きることを許し合える社会を目指せないものだろうか。
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一人ひとりには、それぞれの社会性、社会的身体がきちんとある。
目の前の人が誰で、その人と姉との関係はどうで、それに対して自分は何処に居るのか。
希栄が手にしたのは、結婚式の絵本。
姉の結婚について思うところが有ったのだろう。
そして、その絵本を見ながら、そこに自分の存在を重ねた。
彼女の手によって描かれた絵には、姉とその夫と、そして自分が描かれていた。
彼女には、これからの未来の家族の姿が見えていた。
このシーンを、簡単に「良かったね」とは見られない。
そこには、「私には見えているよ!」という言葉が聞こえてきそうだった。
何も分からない、何も出来ないお荷物なんかじゃないんだ。
きちんと理解し、自分もその中で生きるんだという、強い叫びが聞こえてきそうだった。
それが、聞こえてきただけで、この映画は良かったと思う。
つまりは、希栄は、”絵本の人”になれたわけだからね。
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深い洞察力と、想像力、そして表現力が見えた時、その存在が輝いてくる。
人が輝くのは、その人の姿が見えた時だと思う。
なにも、その人が特別なのだからということは無い。
特別じゃないからといって、劣っているわけでも無い。
人をきちんと見て行くと、自ずとその輝きに気付くのだと思う。
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さらに、映画として、とても良かったと思います。
特に頑張っていたのは、子役の二人。
難しい状況を良く読み込めていたように思います。
そして、大人になった希栄を演じた納葉さん。
彼女が演じたその人は、とても表現が難しい存在だったと思います。
それは、単に彼女が表現するのでは無く、周りとの関係において演じなければならなかったはずだからです。その関係の難しさがこの映画の彼女の役どころだったのですからね。
そんな姿の末に、あの一瞬の笑顔は、かなり痺れました。
良かったです。
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今回は、クラウドファウンディングの特典として、オンライン公開されたものを視聴した。
制作趣旨として、障害者を持つ家族について広く知らしめることをあげていた。
この制作状の立場にこだわりすぎると、映画として面白みを欠いたものになりかねないところだったと思う。
同様のテーマで、一般に製作された映画は多くある。そしてそれらは、映画としてとても面白く、また考えさせる事も多い。
こうして、立場を元に映画を制作されるのも良いが、私としては日々制作されている同様のテーマを持った映画たちを見直してみることも重要だと思う。
それにしても、こうしてクラファンで支援した映画を見られたことにまず感謝です。
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