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対峙のSQURのレビュー・感想・評価

対峙(2021年製作の映画)
4.0
頭の中の考える部分と感じる部分のうち、感じる部分を刺激される映画が好きなので、会話劇ときくと基本期待値を2段階くらい下げて臨む。
最終的に、この映画はそういった悪い予想を裏切って、予想外に素晴らしい映画的映画だった。

映画が始まり、2組の夫婦が対話を始める。
これを見ながら観客は、この人達がどういう人なのかを考え始める。どちらが被害者の親で、どちらが加害者の親なのか?彼らはどのくらい親しくて、相手をどう思っていて、何を求めているのか?あるいはいい人なのか、悪い人なのか?精神分析的な説明やジェンダー論的な説明を思い起こす人もいるかもしれない。これらは全て言語的な要因であると言える。観客は物語を作ろうとする。そして、それは話している彼らもまた同じなのかもしれない。

議論が加熱し、言語モードが最高に高まり、ある瞬間に限界が来て振り切れる。この映画では、その瞬間がとても分かりやすく示される。その瞬間は、少しわざとらしすぎるか、あるいは自明に美しいか、そのどちらかか、あるいは両方だ。
とにかく文字通り凪の瞬間が訪れ、観客である私の心の中に今まで映画を見ながら考えていた言語モードとは違う、感覚的感覚が広がっていく。

そして、そこからは話していながらにして、非言語的世界になる。
"赦す"というのはキリスト教的概念だ。そして、"赦す"は多く、言語的なものとして理解されがちだ。この映画では、"赦す"の非言語的な側面が現れる。
それは、今・ここに生じていることをありのままに感じ取ることだ、ということが見ていて"わかる"。音が(主観的に)途絶え、そして今まで聞こえなかった音が聞こえる。指先で触る肌の感触がわかる。そこに部屋があり、窓があったことに気づく。ただ今・ここに生きていることに気づく。
その瞬間はまさしく直前まで、言語的に話されていた人間の生きる価値についての話と結びつく。

ラスト、聖歌や「神と共に」という言葉が映されるが、これはおそらく、キリスト教に馴染みのない私のような人が表面的に受け取ってしまう説教くささ・メッセージ性とは真逆のものを表現している。
聖歌を聴いて美しいと思うとき、それはメロディでもあり、そしてその歌詞の示す意味内容でもあるだろう。しかし、その意味内容に感動していると思っているときにもまた、私たちは感覚的な部分で自分が今・ここに生きていることに気づいている。
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