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白い牛のバラッドのYAJのネタバレレビュー・内容・結末

白い牛のバラッド(2020年製作の映画)
3.3

このレビューはネタバレを含みます

【平手打ち】

 鑑賞前日は「第94回米国アカデミー賞」の授賞式(https://eiga.com/news/20220328/8/ )。
 期待された『ドライブ・マイ・カー』は国際長編映画賞受賞どまり、作品賞は『CODA あいのうた』だった。『CODA~』は、助演男優賞でも聾者の俳優Troy Kotsureが初オスカー受賞と話題を攫った感じだ。
 アカデミー賞がここ数年で大きな変革の秋(とき)を迎えているのは『なぜオスカーはおもしろいのか?』(メラニー著)で学習済(https://booklog.jp/users/yaj1102/archives/1/406518536X )。 「白人男性」が大半を占めていたAMPAS(Academy of Motion Picture Arts and Sciences/映画芸術科学アカデミー)の体質が、ここ10年ほどで会員構成が大きく入れ替わり、時代はダイバシティ(多様性)が一大トレンドとなる。
 その結果が『パラサイト』といった欧米圏以外の作品のクローズUPだったり、#Metoo 運動もあってのフランシス・マクドーマンといった強い女性の2017/2019年の隔年での主演女優賞受賞など特異な現象として現れた。
 マイノリティへの配慮も大きな傾向か。ネイティブアメリカンの役はネイティブアメリカンの役者に、ゲイの役はゲイの役者に、障害者は障害を実際に持った役者にという流れも見逃せない。それなんかは『レインマン』でのダスティン・ホフマンの名演を知る身としては果たしでどうなの?と思わないでもないが、確かなうねりとして存在しているようだ。

 『CODA~』の3冠獲得という偉業も、その流れに乗ってのことなのだろう。その点では『ドライブ・マイ・カー』も、聾唖の、韓国人の女優という重要な役どころがあるのだが、演じた女優さんに本当の聾唖者を当てなかった。ので、作品賞受賞を逃したのなら、惜しいというかなんというか。そこが作品の本質だけでなく評価されるアカデミー賞の面白さといえば面白さなのでしょうが。
 尚、監督賞でノミネートされていない監督の作品が作品賞を受賞したケースは、近年30年では3作品、1割しかない(上記メラニーさん分析)。そういう点でも、監督賞に監督がノミネートされていない『CODA~』の快挙は、時代の潮流に乗ったものという感が大きい。

 とまあ、長い前置き、余談になりましたが(苦笑)
 本作『白い牛のバラッド』も、主人公シングルマザー・ミナの愛娘ビタは生来の聾唖という難しい役どころ。演じたアービン・プールラウフィちゃんも実際の御両親が聾者で日常的に手話を使っている健常者だそうだ(『CODA~』の主人公ルビーのような存在)。

 彼女を聾唖者という設定にした、監督・脚本・主演を兼ねたマリヤム・モガッダム曰く、

「イランの女性を象徴するメタファーです。未だイラン人女性は声を発することができない、意見を言ったとしても誰にも聞いてもらえない、その状況を彼女に込めました」

 ということらしい( https://eiga.com/news/20220131/10/ )。

 本作もイランの、いやイスラム世界の、旧態依然の慣習や社会制度を背景に、冤罪と、報復と、そして赦しを問いかける重い作品。

 我々はまだ世界の一端しか知らずに過ごしている。 
 アカデミーの華やかな舞台の上だけでは見えてこない人間の闇はまだまだ深く暗く果てしない。 ひとの奥さんを侮辱して平手打ちを喰らったとか喰らわせたとかの話じゃすまいくらいに…。



(ネタバレ含む)



 イスラム世界でのお話である。
 冒頭いきなり聖書の引用もある。「神は雌牛を犠牲にせよ」と言ったモーセに対し、「わたしたちを嘲るのですか?」と民が聞き・・・云々。
 まずもって、コーランの知識がないと、この引用が何を意図して挿入されたのか察しがつかない。

 タイトルに「白い牛」とあるように、その引用字幕の後は、刑務所(おそらく)の中庭にポツンと置かれた白い雌牛のモノトーンの映像だ。両脇には、男女に分かれた人の列が壁沿いに不気味な影のように立っている。そして間もなく、牛も人も居なくなった殺風景な中庭だけの景色に切り替わる。牛はどうした? 神の思し召しにしたがい「犠牲に」なったということか。

 イスラムの世界ということで、想像力の働く範囲は、目には目を歯には歯をというあれくらい。所謂、キサースというやつ? イスラム刑法に定められた刑罰のひとつで、被害者と同等の苦痛を加害者に与える得る刑罰(同害報復刑)だ。
 冤罪で夫を殺されたミナが、判決を下した判事をどう裁くのか?! 夫の死をどのように受け止め、呵責の念に苛まれるレザを赦せるのか否か?!

 シングルマザーとして娘との生活を支えるため働くミナの職場が牛乳工場というのも、なんらかのメタファーだったのだろう。そして、レザを殺害する(いや、しようとする妄想)の道具が1杯のミルクというのも、「雌牛を犠牲に」ではなく、雌牛の生み出した乳による報復という何らかの意味を込めてのことなのか。

 イスラムの宗教儀式では、牛といえば、すなわち“生け贄”である。あちらでは、寂し気な牛の映像だけでその意を汲み取ることができるのだろう。誰が誰の犠牲に?何のための生け贄に?? 深読みすればするほど、コーランの意味の理解が及ばないと回答が得られそうになくもどかしい。
 キサースによる報い(=死)か、ディヤ(血の代償=賠償金)か?! 一発、平手打ちで気が済むくらいなら大団円だ。

 結局ミナはどちらも取らず、娘ビタを連れて出ていこうとする。
 女性の立場がとことんまで制限されたイスラム世界の罪深さを印象付けて幕を閉じる。

 本作、イラン本国では
「2020年2月のファジル国際映画祭で3回上映された以降、政府の検閲により劇場公開の許可が下りず、2年近く上映されていない」  
 のだそうだ。女性の地位という点もあるが、冤罪、死刑執行に対するメッセージが上映許可が下りない理由のひとつらしい。

 イランは死刑執行数は世界2位だそうな(因みに1位は推定で中国。推定って・・・?! 日本は8位)。
 全てが理解できないまでも、そういう作品だということは記憶しておこう。
YAJ

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