見ること、見れないこと。
煙、靄、そして眼球。視覚モチーフが占めていた。
執拗に画面を埋めようとする紫煙。夜行列車の席でタバコの葉を詰める主人公のすぐそばで咳をする、おそらく気管支の弱い少女。車内は煙で満ちている。昭和的な価値観が示されているのではなく、何かを覆うことが企図されている。ゲゲ太郎が直後に「見えないものを見ることができる」と言うのはその証左に他ならない。温泉が靄に隠れていたのも、見えないもの=妖怪を隠すためであった。
見えないもの、村の隠された論理で駆動される裏のストーリーは、主人公たちによって暴かれ、次の世代または文書として残される(物語は書き直されるために、証拠である「見えるもの」の本は破壊され、記憶=音声=パロールに変換される必要があった)。そして文書はジャーナリズムによって残されるのである。
また、見えない論理を見咎めるように常に眼球が映される。死者の眼球。見ている。そして目玉の親父という、眼球そのもの、視覚性を司る器官そのものの身体を持つ存在の記憶が伝えられる。(鉄パイプから眼球が捻り出され、次いで血飛沫が上がるシーンは本当に見もの。そこだけで喝采するレベルでした。)
さて、実は本作は物語を持たない。あるのは(ちょうどよく『動ポモ』風に言えば)データベース的設定の配置。80-90s以降の我孫子武丸、綾辻行人的な流れを意識する(それは都市伝説-洒落怖的想像力として村のイメージを支える。「お前らあの祠/神社/空き家に入ったんか」的な島(さらに言えばキリコ『死の島』であり、それよりも『君たちはどう生きるか』のイメージに依っている)がそうである。本作の最初のセリフが「都市伝説!」であることはおそらく偶然ではない)。加えて、金田一耕助シリーズをデータベース的に分析し、それを適切に配置していくことで物語は半ば必然として駆動される。結果として中盤まで異様にテンポが速く進み、まるでシリーズの総集編を観ているかのように各シークエンスが「イベント」のように、フラグ管理のようにこなされていく。近年の「伏線回収」と呼ばれる作法を機械的にこなすように。それはご都合主義的な、お定まりの展開というよりむしろ、そうせざるをえない配置である。サンタグム的な必然性に導かれている。本作の注目すべき点は(おそらくあえて選択された)希薄な物語性でなく、むしろ凄まじい速さで処理される映像と、「速さ」呼応するかのように絢爛な映像美だろう。それはあたかもTikTok的な、「短時間・強刺激」を映画の文法に持ち込もうとする努力であり、それはある程度以上の成功と言えるはずだ。
さて、作中でゲゲ太郎は「未来には貧困も戦争も病もないかもしれない」と告げる。無論、それらすべてはここ数年で発生していることから、強い皮肉またはこれからの期待になっている。1951年の、いまだ戦争の記憶を色残した時代に(当時の新宿などには傷病兵が溢れていたと聞く)よりよい未来を夢見たが生きながらえなかった子供たちは多いはずで。しかし、そういう未来をいつか達成しなければならないのだ、と思う。少なくとも水木の記憶は残されねばならないのだ。