くまちゃん

⻤太郎誕生 ゲゲゲの謎のくまちゃんのネタバレレビュー・内容・結末

⻤太郎誕生 ゲゲゲの謎(2023年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

雑誌記者の山田は廃刊の瀬戸際に立たされた自社の一発逆転を狙って鬼太郎出生の秘密を探る。幽霊族の足跡をなぞってたどり着いたのは廃村となった哭倉村であった。鬼太郎は山田に警告する。引き返せと。そこではかつて村一つを滅ぼすほどのおぞましい惨劇が繰り広げられていた。
舞台は昭和31年。終戦から10年が経ち、高度経済成長の時流に乗ってどこも活気づいていた。そんな折り帝国血液銀行に勤める水木の耳にとある訃報が飛び込んでくる。政財界を仕切る龍賀家当主、時貞が亡くなったのだ。ビジネスでの親交がある克典に跡目を継いでほしい水木は会社の密命を受け龍賀が本家を構える哭倉村を訪れる。

後継と遺産を巡る親族による骨肉の争い。龍賀時麿の白塗りスタイル。不穏なウエットな雰囲気と連続する凄惨な殺人事件。これらは耽美で土俗的な横溝正史の影響が強く見られる。ただし論理性やトリックが魅力の横溝作品と同じエクスタシーを求めてはいけない。今作はあくまで鬼太郎なのだ。ミステリー要素はあるが怪奇が基盤としてあるため、ロジックのベクトルが異なる。

龍賀沙代は東京から来た水木に興味を示し自分をこの村から連れ出してほしいと懇願する。沙代はここから逃げたいと切に願っていた。哭倉村の閉鎖的なコミュニティと時代錯誤な因習、時貞との悪寒が走る関係性を鑑みれば自分の置かれた環境に懐疑的になるのは当然だろう。沙代の申し入れを無責任に承諾する水木。だが彼にその気はなかった。

水木は利己的で上昇志向が強い。出世して人に使われるより人を使う立場に昇りつめたいと常日頃から考えていた。それは太平洋戦争への従軍経験で形成された特殊な生存本能に起因する。水木は玉砕命令を受けながらも死ぬことなく終戦を迎えた復員兵である。上官は力強い口調で兵士に玉砕を命じた。日本国のために命を賭すのだと。この死には意味があるのだと。しかし当の上官は自分には玉砕を見届けて報告する義務があるため生きねばならないと断言する。この男は自分たちと一緒に死んではくれないのだ。後で死ぬから先に死ねと言われても信じられるものではない。人に命令しておきながら自分にその覚悟がない。戦争におけるその描写が非常に生々しく人間の業を抽出している。この場面は水木しげる著の「総員玉砕せよ!」からの引用である。「総員玉砕せよ!」は作者曰く90%が事実とのことだ。兵隊と靴下は消耗品と言われた日本軍の中でやはり命令一つで多くの兵士を玉砕させるのは難しかったらしい。漫画では全員死亡するが実際には80人近く生き残った。これは戦争の経験者だからこそ描ける不条理と人命軽視のリアリズムであって、これほど死に意味を持たせない戦争漫画もあまりないのではないか。ちなみに水木しげる自身は2度発令された玉砕には参加していない。マラリアで寝込んでいた所に空爆を受け左腕を欠損し傷病兵部隊で療養していたためだ。運良く生き延びた水木しげるは戦争の悲惨さと無意味さを生涯を通して訴え続けていた。原作や原作者へのリスペクト、作品が誕生した時代背景への深い理解があってこその今作。その秀逸な脚本力と演出力は軽い気持ちで足を運んだ観客にとって姿勢と襟を正せねば直視できない。

行方不明の妻を探し彷徨う謎の男。彼は時麿が殺されたタイミングで哭倉村に現れた。当然殺人の嫌疑はこの男にかけられる。ねずみの発した言葉からゲゲ郎と呼称することにした水木。ここから二人は奇妙な絆で結ばれていくこととなる。
龍賀家の座敷牢に幽閉されたゲゲ郎。水木はその見張り番に任命される。ゲゲ郎は飄々としており掴み所がない。自分をここから出して欲しいというゲゲ郎に対し、交換条件を提示する水木。目的を話せば出す。自身の身の上話を何の疑いもなく饒舌に語るゲゲ郎はどことなく楽しそうだ。妻が失踪して以来誰かと話すのも久しぶりだったのかも知れない。しかし水木が牢の錠を回す事はなかった。騙されたと知った時のゲゲ郎の表情や声色は可愛らしい絵柄だからこそ不気味さが際立つ。朝にはゲゲ郎が消えていた。窮屈な座敷牢を抜け出し入浴していたのだ。開放的な自由を求めるのは迫害され続けてきた幽霊族の魂に刻まれた反骨精神故なのか。目玉おやじの風呂好きは周知の事実であり、この入浴場面は必然である。

長田幻治率いる裏鬼道とゲゲ郎の戦闘場面はそれまでの水木しげる的タッチとは明らかに異なる。これは東映が誇る最強クリエイター太田晃博によるものだ。水面に投写したかのような揺れる外郭線、そこからくり広げられるダイナミックかつエキサイティングな躍動感溢れるアクションシークエンス。日本のアニメーション技術の高さがここに集約されている。

鬼太郎は隻眼であり、その父は眼球のみの姿となった。「墓場鬼太郎」「ゲゲゲの鬼太郎」にとって「目」とは象徴的な要素だ。今作において、沙代の暴走で殺害された龍賀家の人間たちはそれぞれ目を損傷している。時麿は目を貫かれ丙江は垂れ落つる眼球をカラスが啄んでいた。特に乙米に関してはパイプが眼窩に突き刺さり、出血の圧力で血飛沫と共に眼球がパイプから吹き出すという特異なシークエンスを見せ、眼球大喜利で我々観客を楽しませてくれる。これは他の映画やアニメーションでは中々目にしない独創的な演出と言えるだろう。

ゲゲ郎は水木に愛を語る。誰かのために生きるのは良いものだと。いつか自分より大切な存在ができるはずだと。戦争は人間の心を破壊する。過酷な経験をした水木よりゲゲ郎の方が人間らしく見える。この世で最も恐ろしいものは妖怪ではなく人間なのだ。でなければあれほど多くの同族を傷つける戦争を引き起こすわけはなく、己の利益のために血を絞り続ける鬼畜の所業に手を染めるわけはないのだ。

ゲゲ郎は水木に未来を託し、その世界を「見てみたい」とこぼす。だが幽霊族と異なり人間は短命である。ゲゲ郎と水木が守ろうとした幼き魂が浄化される様子に目玉おやじは呟く「見てるか水木よ」。今作の大きなテーマとして継承がある。龍賀家もさることながら水木とゲゲ郎がやり残した鎮魂の儀を鬼太郎が受け継ぎ達成する。ゲゲ郎こと今の目玉おやじは次の世代への橋渡しと受け継がれた時代を見守る両方の属性を持つ。それは戦争の悲惨さを伝え続けた水木しげるが天に召され、これからの世界の行く末を見届けようとしているかのように、水木しげるの分身は水木ではなく目玉おやじなのかもしれなかった。
そしてまた、「鬼太郎」そのものもキャストを変え絵柄を新調し作風を更新しながら永遠に受け継がれていく。その中に溶け込む生きるレジェンド野沢雅子。水木イズムと野沢雅子は普遍的で不滅なのだ。
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