ぜろ

⻤太郎誕生 ゲゲゲの謎のぜろのネタバレレビュー・内容・結末

⻤太郎誕生 ゲゲゲの謎(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

・冒頭の社長の台詞「よーしわかった!」で笑ってしまう自分がちょっと嫌になった

 これは………横溝の長編、というか市川崑の映画。角川映画の第一作で国鉄の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンとともに売り出された、市川崑の金田一ものの映画 
・一応言うと金田一もの(推理もの)は怪異を理論的に説明つけるという意味ではこの映画とは正反対の立場にある(哭倉村のそれは本当に怪異だった)んですが、戦前からの念のようなものにいろんな存在が苦しめられているという根幹の部分は同じです
・誰かがボートに乗ると「穴空いてる?穴空いてる?」と思っちゃう
・松子夫人みたいな人………いるな………
・竹子さんと梅子さんを足して2で割った感じの人が………いるな………
・丙江さんのあの雰囲気は『悪魔が来たりて笛を吹く』の秋子さんぽいなと思った(バックストーリーは全然違いますが)。でも近親相姦の感じと鍾乳洞うんぬんというのは『八つ墓村』ですね 犬神佐兵衛はとんでもねえ家父長なんだけど八つ墓村の田治見要蔵もとんでもないので
・三女の夫があんなに働いてるんだなとは思った。『犬神家』は松子竹子梅子の生い立ちと彼女らの恨みが鍵になり、殺されるのはその息子たちなので、夫たちのほうはほとんどなにもフューチャーされなくて、かなり立場が弱いです。
・映画だと神社の神官(大滝秀治。市川崑の金田一でわりと大事なことを教えてくれるのはいつも大滝秀治)が佐兵衛の過去を知っていてそれを金田一に教えてくれるんですが、哭倉村は住人ぐるみというのがすごい。『犬神家』は「犬神さんのおかげで地元がやっていけている」みたいな感じで、ほかの住人は事件にさほど関係ありません。
・あと白塗り 時麻呂が出てくると『犬神家』を知っている人はみんな佐清のことを思い出すわけですが、仮面ではなく白塗りなので白い顔が(佐清のマスクではありえないほどに)ぐにゃっと歪むというちょっとしたサプライズ あれはあれで怖いね
・猿蔵みたいなのいたな……
・遺言状読む場面人いっぱいいてめっちゃ笑っちゃった、家の大きさとかことが起こる範囲の広さみたいなのはちょっと『獄門島』ぽい気がする
・『犬神家の一族』は原作だと犬神家の家業は製糸工場、映画だと製薬会社で、芥子を栽培して麻薬を作り、それを軍が買い付けていたという違いがあります。「M」です。「M」はこれを戦争が終わった後も企業に使わせて人間を使い捨てしようというものであるところが、より今に繋がる描き方になっているなと思った。

・佐兵衛翁、死に逃げしてんじゃねーよ!珠代さんもやり返しなよ!みたいな、そういう話だなって………佐兵衛翁は珠代さんに富を渡したくてあんな遺言を残したわけですが、気持ち悪い縛りがあるのは確かなので。
・「お前がいる未来を見とうなった!」→目玉になる は良い流れすぎるだろ〜!ずっと見てな!
・ゲゲ郎が最終的に目玉だけになる、目玉そのものがひとつという見た目が「都合の悪いことから目を逸らすな、目を瞑るな」「未来を見ろ」というメッセージになっているのがすごくいいなと思った 目玉だけで小さな身体しか持たないゲゲ郎ができるのは「見る」ということだけ
・鬼太郎の左目が開かないの、ママ似だったんか……
・鬼太郎のママはお岩さんだと思うんですが、お岩さんが出てくる怪談「東海道四谷怪談」も映画がいっぱいあり、私は木下恵介の『新釈四谷怪談』(1949)を観たことあって好きです。お岩さんは田中絹代で、超かっこいい復讐劇になっている。

・70年代にやっていた国鉄のキャンペーン「ディスカバー・ジャパン」は、「都会の喧騒から離れた田舎にある、昔懐かしい日本を鉄道に乗って再発見しましょう」というようなもので、それに金田一の地方ものがぴったりだと角川が目をつけたという背景です。金田一はよそ者として地方にやってくるわけです
・この映画では水木がそれにあたる「東京からのよそ者」なわけだけど、さらなるよそ者として妖怪たちがいることで、水木がホモソーシャルと家父長制から降りる後押しになっている。
・それから、市川崑の金田一のイメージは「天使か神様」で、原作だとアメリカ帰りで世田谷とかに住んでる人なんですが、映画ではどこからきたのかよくわからないような感じになっています。東京にいるところも出てこない。どこからともなくやってきて、誰にも見られないうちにどこかへ帰ってしまう。確かに「よそ者」ではあるんだけどこの点では原作と映画はちょっと違っていて、映画の金田一は物事の顛末をわかっている上で見守っている何かの使いみたいな人です。そういう意味ではゲゲ郎の「よそ者」の方に近くて、石坂の金田一って妖怪みたいなもんなのかもしれない。
・金田一は戦前戦後という時代とどうしても切り離せない、どうしても悲しさみたいなものが付きまとうキャラクターなんですが、水木も人間である以上はそうで、では妖怪たちは?となった時にゲゲ郎に未来の話をさせるという着地がとてもよかったです。妖怪は昔からいた、今もいる、これからもいる、という。金田一は80年代が来る前に日本を去ってしまいますが、誰もがそうできるわけではない。子供というのは大人よりも未来を生きる未来人で、鬼太郎はそういう意味を持った歳を取らない妖怪なのかもしれない。ゲゲ郎の「子供を見守りたいから目玉になった」というのも、未来に根差した理由を持った存在に見える。水木にとっても、それはこの先生きて世に止まり続ける理由になるでしょう。

昭和31年というと金田一はそこそこというかもうかなり有名になってる頃です。東京のどこかですれ違ってるかもしれないな。
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