黄金綺羅タイガー

Firebird ファイアバードの黄金綺羅タイガーのレビュー・感想・評価

Firebird ファイアバード(2021年製作の映画)
2.1
なんかモヤる。
映画の出来として悪いかと言われたらそうではない気がするけれど、すごくモヤる。
こういう類の映画は批判しづらい世の中になってしまったから、感想を書くのも躊躇われるが一応、僕個人の意見として残しておこう。

まず最初に、こういった現実が過去にあったことは事実だろうし、こういった現実のなかで生きなくてはいけない人たちがいたことは辛い出来事だったとも思う。
よく美輪明宏さんが語る、美輪さんの世代のゲイの方のお話などをメディアを通して伺うと本当に過去の世代の方は苦労なさったのだと心底思う。
先達たちが努力したからこそ、こうやって大っぴらにLGBTQ+の映画が上映されて受け入れられる世の中があることにも感謝したい。

時代背景を思えば、登場人物たちの気持ちにはとても共感できる。
真実の自分を貫き通したいセルゲイと、セルゲイへの愛と世間からの視線や自分の成し遂げたい責務とのあいだで苦しむローマン。
愛した人に裏切られ、悔しさを抱えてもその人たちを憎みきれないルイーザ。
同性愛を汚らわしいものと見る世間の目。

1970年代の、冷戦真っ只中の、しかもソビエトなんて言ったら同性愛を汚らわしいと見るのが当たり前で、ローマンが結婚した選択は正しいこととさえ言えるだろう。
むしろセルゲイが異端であり、向こう見ずなだけだとさえ言える。
(いまでさえロシアはアレなのに)

当時の価値観だったら、自分の心を押し殺して世間が求める“真っ当な”生き方をするのか、心のままに正直に生きて異端者として後ろ指指されるかしか選択肢はなかっただろう。

『モーリス』はそれを主題にした映画で、それを世間に知らしめるために創造された美しいフィクションだ。

『マティアス&マキシム』は自分が同性愛であるということへの葛藤、そしてそれを受け入れる過程を繊細に描いた素晴らしいフィクションだ。

しかし、この『ファイアバード』はどちらの映画とも通じるテーマを持ちつつも、どちらの結末にも至らなかった。
それは本作がトリミング、成形して作り上げるフィクションが土台ではなく、現実に基づくストーリーが土台だからだろう。
だからこそローマンの選択は不条理で、利己主義的で、それにはすこし反発を覚えるがそれが現実の泥臭さなのだろう。
そして、ローマンが最後は空を選んだのも自分の望むものと現実の世界との葛藤があったためだろうと理解できる。

本作が現実に基づくストーリーと明記していることのメリットはこういったところだろう。
一方で、僕は現実に基づくストーリーを強く押し出すことでデメリットもあるように感じている。

それというのは、それを映画冒頭で明記することで、映画のストーリーに没頭できないということだ。
現実に基づくということは、いまの現実世界にも地続きであるということである。
そう考えると余計なことを考えてしまってそれが個人的にはすごくノイズになる。

映画の登場人物たちが現実にいるというということは、本作を世に出すことがその人たちに影響があるのではないかということをすごく考えてしまう。

ルイーザからしてみれば、一度はほのかな恋心も抱きつつも親友として存在を受け入れた男に夫を寝取られたうえに、夫も本当に愛していたのは自分ではないという現実を突きつけられて、さらにはそれを洗いざらい世の中に発表されたわけで、彼女はどんな気持ちなんだろうとすごくモヤる。

この感覚は『美しい絵の崩壊』を観たときのモヤモヤに近い感覚がある。

それにローマンとルイーザには子どもがいるわけで、彼からしてみたら幼い頃に戦地で亡くなった父親がゲイであったうえに自分と母を裏切っていたということを大人になってからまざまざと見せつけられているわけで、もしその子どもが自分のなかで父親であるローマンを戦地で亡くなった英雄として神格化していたらショックはなおさらだろうなとすごくモヤる。
(しかも現在エストニア人でなくて、ロシア人男性だったら、同性愛ヘイトの可能性だってあるだろうに…)

たしかにセルゲイもローマンも社会的バイアスによって自身の運命を捻じ曲げられた犠牲者で、本作はとても美しい彼らの悲恋の話だ。
しかし一方で、ルイーザとその子どももその犠牲者であるにも拘らず、彼らに対して配慮が少し足りていないように感じる。

たしかに長らく西洋的価値観のなかでは同性愛者は社会的弱者であり、未だそうである。
しかし自分たちが社会的弱者だからといって、過剰に権利を求めすぎて他の権利を逆に侵害するような配慮のないような形になってしまうのは良くない。

また本作が事実に基づくと冒頭で明記されることで、本作の原作がセルゲイの主観で作られており、そこにはセルゲイ視点でのバイアスは多分に含まれていて、彼がローマンとのストーリーを意図せずともドラマチックに脚色している懸念があるということをすごく考えてしまう。

ただ、本作が現実に基づくものであって、セルゲイとローマンのあいだにこういった愛があったということは否定したくない。
だから現実に基づくストーリーということを伝えるのは大事なことだとは思うのだが、あまりにも喧伝しすぎなのは気になる。
なにも映画冒頭に明記しなくても、とは心底思う。
『シシリアン・ゴースト・ストーリー』のようなやり方だってあっただろうし、最後に原作者セルゲイ・フェティソフに捧ぐくらいにしておけば、もう少しおしゃれでゆっくりと味わえるような映画なっていただろうなと思うとものすごくもったいない。

あと、ポスターなどになっているキービジュアルのシーンもすこしどうかと思うところもある。
確かに良い画ではあるのだけれど、海での情事のシーンというのがどうも…
それをキービジュアルにしているのも引っかかるし、あのシーンの空に飛び立つ戦闘機のカットがなにかメタファーなのかどうなのか…
あの場面であの画を入れることがすごく蛇足に感じて、美しいシーンなのにすごく勿体ない。

最近、LGBTQ+映画が量産されているが、それも少しどうかとは思っている。
というのも、だいたいの映画がLGBTQ+のいまを描いているのもではなく、LGBTQ+の過去を描いているものが多い。
LGBTQ+というマイノリティの中にあって、さらに生きづらさを抱える人たちのことを描いているものは少ない気がする。

これではLGBTQ+という概念に対するジャーナリズムではなく、LGBTQ+の過去の悲劇を美化した感動ポルノになってしまっているのではないかという懸念もある。
(というか、日本の一部では完全にポルノとしてくらいの価値でしか観ている人もいないか? とさえ思うこともある)
そういった意味でいえば、本作もそうなっているのではないかということを感じなくはない。

しかし、本作が公開されたことで制作国のエストニア本国で同性婚が実現したという事実を考えれば、本作が作られたことには大きな意味があったと強く感じる。