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エンドロールのつづきのkazuoのレビュー・感想・評価

エンドロールのつづき(2021年製作の映画)
4.8
インドから映画に愛を込めて…

いやー色んな意味でやられた!
途中んーってなったとこあったけど、終わってみればそれも必要であり重要であり…
未熟、暴走、理解、成長、取引、輪廻、愛…
エンドロールが流れる時、原題(Last Film Show)を多様的な意味で理解し、邦題の素晴らしさに気付きながらそっと涙がこぼれた、いわゆるインド映画の歌って踊って大活劇なメソッドとは異なる、ヨーロッパ映画なテイスト…否、世界の映画が散りばめられた傑作。
発て、そして学べ


以下ネタバレ要素ありです🎵


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この映画は説明的な要素は少なく、特に人物像はシーンから感じ取らなければいけないのだけれど、繰り返し映し出される母親がお弁当を作るシーンは彼女の愛情と豊潤な感性を、体罰する時の父親の悲しげな表情は規制の概念に囚われ(学ぶ機会のない故)行っているが、本当は子供を思いそうしたくない優しさが感じ取れる。

子供たちの行き過ぎた映画愛が彼らをフィルム泥棒にしてしまうのだけど、行為に及ぶ彼らの倉庫侵入における鍵を壊す時の手慣れた手付き、罪悪感のなさは正直引いてしまった。これが序盤で書いた「んー」となった要素。しかし仲間を庇い警察に逮捕された主人公サマイの釈放後、予算の都合で成されなかった映画館の壁の塗装を子供たちが自発的に行いオーナーから映画鑑賞を許されるのだけれど、これは労働に対する報酬、つまり自身が作った価値における取引という社会性を学ぶところに繋がるのだから、あれは必要であり重要な要素となる。人は未熟である。しかし経験から学ぶ。これを説得力のある形で示すのに効果的に作用した。

フィルムからデジタルへ。

時代は移り変わる。
やがて映画館ギャラクシー座はフィルム上映からデジタル上映に。
教師のサマイに、これからのインドの階層は英語が出来るか出来ないかで別れる、という内容のセリフがあったが、映写技師ファザルは後者に当たり、英語の知識がなければデジタル機材は操作出来ない故に彼は職を失う。母の手作り弁当と引き換えとはいえファザルはサマイに映画を提供してくれた恩人。だからサマイは友人の父を介し仕事を紹介する。ここにあるのは相互扶助。

廃棄されたフィルムとケースは工場に運ばれ溶かされ加工されその姿をスプーンやバングルに変えられる。
非情な現実。
でも物語はそこで終わらない。

バングルへの変化は輪廻。だからバングルは過去に見た映画たち。
そんなサマイのフィルムへの想いを乗せながら列車は前(未来)に進む…

そして「Last Film Show」のエンドロールが流れた時、この映画の存在自体が邦題「エンドロールのつづき」である事に気付かされる。
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