福岡拓海

コーダ あいのうたの福岡拓海のネタバレレビュー・内容・結末

コーダ あいのうた(2021年製作の映画)
4.9

このレビューはネタバレを含みます

物語に感情移入せずに泣いたのはいつぶりだろうか。涙の訳が分かるような分からないような。涙が出そうと感じたその時には溢れ出していた。
ハンカチが間に合わなかった。

CODA、耳の聞こえない両親に育てられた子供、ルビーは両親と兄の4人家族の中で一人だけ耳が聞こえる。そのため、ルビーは幼い頃から通訳として、家業の漁業をはじめとした生活の様々な面で家族を支えていた。とても献身的な少女に見えた。だからこそ、最初、私はそんな彼女に対しての家族の態度や行動に、ときたま少し思いやりが足りないように感じた。近くに勉強しているルビーがいるのに、騒音を鳴らすことを厭わない、特大の音量の車でルビーを迎えに来る、など。終始家族の仲のよさ、温かさを感じるのに、どこかルビーの気持ちをわかっていないようにみえるのはなぜなのだろうと感じた。極めつけは、音楽発表会でのルビーの歌唱中に母親が父と「今日の夕飯は何がいい?」「スパゲッティかな。」「それじゃ、買い物に行かなくちゃね。」と手話したことだ。それは、本当に今しないといけない会話なのか?と凄く残念にも感じた。しかし、その直後の無音のシーンで私は気づかされてしまった。私が家族の行動を非難するのは私が耳が聞こえる人だからなのだと。
父母兄は目から映像は入ってくるのに、音が聞こえない。周りは、ルビーの歌を聞いて感動したり、涙している人がいるのに自分達にはわからない。
理解してたつもりなのに理解できていなかった。思い知らされたと思った。
この数分のシーンを経験した上で、自分は3人を理解できていなかったと認めた上で、それで3人を理解できたとできるだろうか。私は、やはり耳の聞こえないdeaf personのことは理解できないのだと思った。「分かる。」というのは嘘。「分からない。」それでも相手を受け入れて、分からないものを分かろうとする努力をやめたくない。やめてはダメだなと強く思った。日常生活でも、相手と自分が違うと分かっているのに、わかっているけど、ついつい自分の価値観を押し付けて話をしてしまうことがある。大事なのは、相手の気持ちは全部は分からないと割り切りつつも、寄り添うということなのに。
そんな家族の中でも、父がルビーを分かろうと努力するのをやめていなかった。発表会後、ルビーにもう一度、自分のために、発表会での歌を歌ってくれないかといった。そのときに父がルビーを分かろうとするためにとった行動、姿をみたときに涙が溢れた。
ルビーが父に[You`re All I Need To Get By]の歌がどんな歌か説明した言葉も素敵だったと思う。原曲はルビーとマイルズがデュエットした姿のように、恋愛がベースの歌だが、ルビーは、この歌は、人はみんな誰かをお互いに必要としているんだと説明した。そんな説明をしたルビーの心の中には、この曲の歌詞にもあるように、あなたのために、愛のために犠牲になるのは厭わない、ルビーの立場に置き換えると、家族のために自分の大学進学ではなく通訳として役に立ちたい、という決意が見えた気がした。
しかし、そんなルビーに兄レオは家族のために犠牲になるなと憤った。私はレオが怒りを露わにしたシーンで、レオの気持ちを、レオがこれまで兄として耳の聞こえる妹と過ごしてきて、その都度何を思ったかわからないのに、何を理解できるはずもないのに、泣いてしまった。
相手のことを思いやる行動が必ずしも相手の望んでいることではないんだなとも思った。

そして、この映画が一番伝えたいメッセージが込められたのが[Both Sides Now]の楽曲なのだと思う。私には「相手をわからなくてもいい」と伝えている曲に感じた。言葉にしてしまうと少し空虚に思えてしまうが、この映画は、ここに深みをもたせるのに足りる内容をもちあわせていると思う。
Mr.Vは言った。その曲を誰に伝えたいのか、どんな感情をぶつけたいのか、それがわからないのならその曲を歌う意味がない、と。大学の実技入試で家族が二階の席に座ったこと、その家族に向けてルビーが手話をつけて歌ったことが、その言葉たちを体現していると思った。[Both Sides Now]は終始どっちつかずな歌詞にも見てとれるけど、分かろうとした上で分からないのと、そもそも分かろうとしないことが全然違うこと、歌詞の中の「私」は、その分かろうとする葛藤をやめていないところが伝わることが、私にはとても刺さりました。

また、音楽の、そして歌うという表現の素晴らしさもこの映画は伝えていたと思う。作中に、映画ピッチパーフェクトをジョーク的に揶揄するような描写があったが、一概に歌うといっても、この映画はかなりテイストの違うもので、ピッチパーフェクトにはない要素がたくさん伝わってくる映画だった。(もちろんピッチパーフェクトも素晴らしい映画であるが)
私も歌うことが好きで、歌うときはどんな感情で、誰に、何を伝えたいのか意識して歌っている。
(それは一種、普段味わえないであろうシチュエーションや、言ったことのないセリフを表現することで曲の作り手、歌い手の感情を追体験している側面が大きいが)
いつか、自分にも誰かに対して伝えたい想いがあって歌うことがあるのかな、なんて思った。

そして、映画を観終わった後に、私は今まで感じたことのない珍しい感情に襲われた。感想を言葉に紡ぎたくないと思ったのだ。言葉にしてしまうことで感情を何かしらの答え一つに決定づけたくなかったのだと思う。
(様々な出来事に対して)いつもなら、自分にフィードバックをして、自分ならどうするだろうか、と考えてしまう。今回の映画でいうと、自分がルビーの立場なら、自分がレオの立場なら、どうするだろうか、と。でも、この映画ではそのような考え方をして、自分がその立場を「分かった。」としたくなかった。それは嘘だから。でも、前述した通り、分かろうとする努力はし続けたいと思った。
でもそんな中でも一つわかったことがある。それは、相手のことが理解できない、推し量れない、気持ちをくんであげれない、というのは何も聴覚障害がある人相手だから(聴覚障害のある人からすれば健常者相手だから)の話ではないということだ。マイルズは、ルビーの家で起こった面白く、奇妙な体験を、ルビーがどう思うかを推し量らず、友人に伝えてしまった。そういうことが日常でも、なんでもない人との関係でも起こりうるのだと再認識させられた。

この映画は大切なことを再認識させてくれるとてもとてもいい映画だと思う。
表現の技法的な側面でも、笑いとユーモアで人と人との親しさを表したり、解放感の心情を自然の雄大さで表したり、(映画の技法とかは詳しく知らないから稚拙な表現しかできないが、、、)
何故こんなにも感動したのか、何がそうさせたのか分からない。この後色々な人のレビューを読んで感じてみたい!!

そして、自分のレビューを読み返して、(伝えようと頑張ったが、)全然この映画の良さを表現できていないと思った。悲しい。言葉で表現したことを後悔してしまっている自分がいるまである。
だからこそ、この伝わらない感動を感じてもらうためにたくさんの人に観てほしい映画だなと思った。




(最後に、こんなことは言わずに終わることはできるのだが、リアリスティックな私の性格がそれを許さないのが少し悲しいが。ルビーが大学に合格して家を離れた後、残りの家族は一体どうしたのだろう。お金の問題は解決していないし、船を売ってしまっては新しく仕事を探さないといけない、聾唖者にとって仕事を見つけるのは簡単なことではないはずだ。
心が温かくなった後にこんなことを考えてしまう自分は少し嫌になる。でも、現実はそんなに綺麗ではないから。)