backpacker

クリプトズーのbackpackerのレビュー・感想・評価

クリプトズー(2021年製作の映画)
3.0
第34回 東京国際映画祭 鑑賞5作目

"黒人公民権運動"の抹消。

ヒッピームーブメントとベトナム反戦運動で揺れる1970年代アメリカを舞台に、未確認生物(クリプティド)の保護区(クリプトズー)を作る為に奔走する主人公が、自身が幼少期に出会った夢喰い幻獣・漠(バク)を捕獲せんとする米軍と戦うアクションアドベンチャー……と言えば聞こえはいいのですが、ちょっと違和感が。
違和感の正体、それは、本作において一切触れられない"黒人公民権運動"の存在です。
(なお女性解放運動については、主人公たちが皆パワフルな女性のみという点から、かなり強調して描かれていた印象です。)

公民権運動についての描写が見られないと言えば有名な『フォレスト・ガンプ』がありますが、本作での黒人描写も意図的?と勘ぐりたくなるほどに排除されています。
黒人の登場人物は、うろ覚えで恐縮ですが、ゴルゴンの女性フィービーと結婚しようとしている男性以外では、米軍兵士の中にいたかな?くらいの印象です。

この黒人描写の少なさや、公民権運動についてノータッチの姿勢(落とし込むのは困難とは思いますが)を見ると、"クリプトズー"が意味するものが、白人社会が敵視する黒人を野蛮で危険な生き物=クリプティドに投影したメタファーなのでは?と思えてきます。

そんな疑問は、主人公ローレン・グレイと仲間たちが目指す「クリプティドが世界に受け入れられるための足がかり」としての"クリプトズー"の、在り方そのものが偽善・欺瞞を感じさせる怪しい空間となっているのもあって、ますます強まります。

クリプトズーの在り方は、成程経済合理性のある理由づけがなされており、耳障りよく聞こえますが、当事者たるフィービーには許容し難い違和感を突きつけます。
彼らの自立は、自らを晒し者にすることでしか得られないからです。
クリプトズーが描いているものは、要するにフリークショー。
(フリークショーがピンと来ない方は、とっつきやすいところでディズニーアニメ映画『ダンボ』か、『エレファント・マン』あたりを見てみてください。)
クリプテッド(未確認生物)をフリーク(怪物)と同一視し、その気味悪さをあからさまに煽り立てようとしてくるシーンもチラホラ。
老婆と全身緑のウロコ?毛?まみれのゴリラ系大男がセックスしたり、ブレムミュアエ人(首から上がなく、胴体に目鼻口がついた幻獣)の子どもプリニーは、碌な知性が備わっていない、知的に劣るかのようにみせたり……。

「クリプティドたちは野蛮で、汚らわしく、知性のない化け物だ」
この主張・考え方、クリプティドを黒人に変えるだけで、まるで南軍やKKK系白人至上主義集団のスローガンのよう。
黒人への差別、偏見、暴力、憎悪の連鎖が、やがて暴動といつ復讐と混乱の坩堝に陥っていく様を、クリプトズーの崩壊という表現で見せるところからも、あからさまに彷彿させます。


さて、結局この映画は、サイケで不気味な乱痴気騒ぎの中に、何を描いていたのでしょうか?
「クリプティドたちの自由は、ズーの中ではなく、自らの生きた場所に戻る事でこそ成し遂げられる」という結末からは、「結局何も変わらない」という無力感を感じます。

もちろんグレイたちは、果敢に挑戦した結果予期せぬ事態により夢破れました。
同時に、まだ戦い続けることもできたのに、「その手で掴み上げた魚を諦め、川へと放流する」というアクションを自ら選択したため、物語が終わっています。
決して何もしなかったわけではありませんが、学生紛争の熱狂がモーレツ社員へと化けたような敗北感があり、やはり無力感が。
(ヒッピーからヤッピーへの変化という方が、アメリカ的ですかね。)

"現状維持が最適"という停滞を促しかねない内容は、皮肉を込めているのか、真っ直ぐに主張しているのか、どう受け取るかでいかようにも判断できる難しさがあり、一概には言い切ることはできません。

とは言え、サイケでデフォルメの効いたアニメのインパクトは強烈に印象的でしたので、一見の価値ありな作品でした!
backpacker

backpacker