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シン・仮面ライダーのtamaのレビュー・感想・評価

シン・仮面ライダー(2023年製作の映画)
3.4
「『シン仮面ライダー』試論」

有機物である人は死に、無機物へと還っていく。それに抗うことはできない。
いや、その抗いの様が「フィクション」として、例えば映画やドラマとなり、人の心を打つのだとも言える。

本作でリブートされた仮面ライダーは、TVシリーズが進むにつれて曖昧にされていった「変身」を石ノ森章太郎の原作漫画に忠実に、いわば再定義している。
それは「ライダースーツのギア化」であり(バットマンにおけるバットスーツと同義)、改造手術を受けて強化された有機物である本郷猛の肉体は、ライダースーツという無機物を身に纏うことで「仮面ライダー」となる。(スーツは己の醜さを隠す衣でもあり、「戦闘」するためのマインドセットのツールでもある)

本作において、有機物と無機物というモチーフは、作品を紐解く組紐のようなものだ。
それらがどう取り扱われているのか、具体的に見ていこう。
例えば、ハチオーグとの闘いのシーン。当初、ハチオーグであるヒロミは変身せずに本郷猛に日本刀による攻撃を仕掛けていく。ただ、この美麗な戦闘シーンについて、大方の観客は「早くマスクをかぶれ」と感じていたのではないだろうか。
そのように本作における「戦闘」とは、互いに「変身」することから始まる。
それは有機物である肉体を無機物でくるむことによってはじめて、命のやり取りが行われることを意味している。
有機物である素の肉体には「戦闘」する資格はない。
なので、ハチオーグによって操られた一般人は「戦闘」の当事者になることなくただ突っ立っている。
仮面をかぶらない(変身しない)、コウモリオーグが瞬殺されたことも同義である。
同様に、政府機関は「戦闘」せずに、ただ異物を「処理」していく。

作家の村上春樹はあるインタビューの中で「自分が悪だと思うものがあるとすれば、それはシステムだ」と述べている。
では、本作において、仮面ライダーが闘っているものは何か。「悪」とは何だろうか。
それは、村上春樹の言うような「システム」ではないだろうか。
では、ここで言う「システム」とは何か。端的に言えば、「東京都 新型コロナ 12人死亡 810人感染確認 前週比183人減」というようなものを指す。
そして、本作においては、政府機関のふるまい、それになぜか不思議と通底する緑川イチローの「ハビタット世界」こそが「システム」である。
「システム」には、生きる身体としての、有機体としての個人は存在しない。
例えば、本作でのチョウオーグとの「戦闘」で、二人のライダーは散々に痛めつけられ、流血する。マスクを脱いだ二人の口元が血で汚れていることに、なぜだかほっとした観客も多いだろう。(この時の二人の“少年”の笑顔のショットは目に焼き付く)
無機物のマスクの下には、有機物としての人間の顔があるのだ。「システム」に還元しえない、人間の身体が。
さらに言えば、シンシリーズで何度も反復される、ヒロインの「シャワー浴びたい!」「あなた臭いわよ」のセリフも、有機物としての肉体を生々しく感じさせるために必須なのだ。

有機物である人は死に、無機物へと還っていく。それに抗うことはできない。

ただ、希望があるとすれば、他者へと命懸けで何かを手渡すことだろう。
本作における白眉の一つは、緑川ルリ子のラストメッセージだと思うが、彼女の纏う淡い藍色は、本郷猛が立ち、その後、一文字隼人が立つ、埠頭から見える淡い薄暮の海の色に通じている。
「直接言いたかった」とモニターから訴える声からは、有機物=人間の限界を感じさせて切ない。

「戦闘」が終わり、有機物である肉体が滅び(蒸発し)、無機物である仮面が託される。
ラストシーンで爆走するバイクと、二人の“少年”の会話。
プラーナ=魂という「フィクション」。
はかない身体を持つヒトの願いが託されていて、わたしは泣いた。
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