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シン・仮面ライダーのJFQのネタバレレビュー・内容・結末

シン・仮面ライダー(2023年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

庵野さんは「人間」にも「ストーリー」にも興味がないんだろう。
実際、主人公(池松壮亮)が「仮面ライダー1号本郷猛は改造人間である」を選んだ過去(父の無残な死)も、敵役(森山未來)が唱える「ハビタット空間の理想」も、「とってつけた」感じしかしない。エヴァの「人類補完計画」なり、コードギアスの「嘘のない世界」なりの焼き直しでしかない。

いや、作品に「現代的な意味」を読み取ろうと思えばできなくはない。
たとえば、AI×ビッグデータにより人間が快適さを感じながら統治される「幸福な全体主義」をどう考えるか?とか、なんとか。
今やVRとなったヘルメットを被れば、仮想空間で死者とも対面できる時代になったことをどう考えるか?とか、なんとか。
でも、そういうことを言いたいわけでもないんだろう。

それよりも、やりたいのは自分が影響を受けた「日本特撮の美」の本質をいかに抽出できるかであって。ホントはそれだけがやりたかったけど、今までは一応「成功」しなきゃなんないから、人間描写とかドラマとかを入れてきただけだったんだよと。でも、もう好きにさせてもらうわと。

その点では、うまく行ってるのかなと思う。「日本特撮」に思い入れのない自分でも、マーベルなどとはまた違う「美学」がそこに展開されているのは伝わったから。

薄暗い中で(陰影を強調した画角で)ボソボソ言ってる感じとか。

工場なりコンビナートなりをフェティッシュに撮る「重工業の美」とか。

「止め画の静謐な美」というか、叫ばずいきなりパタンと倒れる美しさというか、グシャグシャグシャ…な編集の後、ピタッと目を奪われる映像が来る感じというか(伝われ~)

「これをカッコイイと思ってるんだろう」というのは伝わるし、実際、カッコイイとも思う。

ただ、それよりも興味深かったのは「日本特撮の美」を追求したことで、はからずも?「日本人」の本質があぶりだされたように感じられたことで。

自分の理解では「日本特撮」は、近代(産業革命)や資本主義の達成である「産業機械の美」や「巨大建築の美」を描きたい人たちの影響で生み出されたもので。
だから戦前は「戦争機械(戦闘機・戦車)の美」を描くためのプロパガンダに使われたし、戦後は「怪獣やウルトラマン」など「デカイものの美」を描くためにそのノウハウが活用された。

つまり、主眼にあったのは「人間を描くこと」ではなかった。

けれど、どうしてそうなって行ったかといえば、日本人が「からっぽ」だったからではないか?と。自分はそんなふうに思っている。
いや、自分もそういうトコがあるので余計にそう思うのだけれど、日本人は自分の中に「確たる動機」がない。

実際、この映画でも、行動の動機は「とってつけた」ものであり、強いていえば「女の子(浜辺美波)がそうしたそうだから…」くらいしかない(笑)。

また、映画ではイイ風な言い方で「(暴力をふるえない)優しさ」を描く。
けれど、実態としては「暴力を振るう積極的な動機も湧き上がらなければ、振るわない積極的な動機も湧き上がらない」のだと思う。「ふるわない」という積極的な価値を持っていたが、そういうわけにもいかないので、意を決してライダーのベルトを締めた…という話ではないと思う。
むしろ「積極的な意思がないこと」を補強するためにベルトを締めているのだと思う。

逆に言えば「暴力を振るえ」という「空気」ができたら、どこの国の人よりも振るうんだと思う。「それが任務ならば忠実にやります」と。(実際、約80年前はそうしたのだから…)。

と、こんなふうに積極的な動機がなければ、情熱的な行動もないのだから、劇的なドラマになろうはずがない。だからアメリカ映画みたいに「テンションの高い感じ」にならない(笑)ましてや「RRR」のようになどなりようがない(笑)

そうした「日本人の本質」が、「薄暗い部屋でのボソボソしゃべり」や「静謐な止め画の美」や「人のいない工場・建築の美」などにつながっているのだろうと。もしくは、人間を改造したり、昆虫と混ぜる事にあまり躊躇がない様子ともつながっているんだろうと。

そう考えるなら、庵野さんは「日本特撮の歴史」に忠実に「人間を無視」したからこそ、「人間(日本人)の特質」を浮かび上がらせる事ができたのだろう、と。そんなことを思った。
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