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女と男のいる舗道のotomisanのレビュー・感想・評価

女と男のいる舗道(1962年製作の映画)
4.1
 ゴダール謹製、主演は細君と聞くだけでワクワクする自分の反応が面白い。ところが、ふたを開けてみたら畳の上で死ねない女の物語で、ま、ゴダールらしいといえばその通り。
 しかし、この女、「ナナ・クランフランケンハイム」といい、仏独境界のアルザス出身、明らかにドイツ風な二重姓を感じさせる氏族名で名はシンプルに同一二音「ナナ」である。このちぐはぐさからして詮索したくなるがそれもただの囮に過ぎない。
 ナナを際立たせるのは、ナナがナナであるためには娘まで儲けた夫婦生活を放り出して、目覚めて2年目、役者人生に乗り出し行路人で死ぬまで、レコード屋の店員、ねこばば犯、娼婦と坂を下り続けながら、それでもどこか自己肯定的、うそも交えてる風ながら、その時その場で馴染んでますといいたげな暮らしを笑っている感じである辺りだろう。
 だから、誰もまともに相手してくれない撞球場で独りダンスに興じていられる。そのとき娼婦ナナの価格は0フラン以下に過ぎないのだ。
 このナナがあるあしたに道を訊きその夕べに死す、というトリックは、一行路人の死なれど戒名に一文字書き入れたい感じでもある。

 しかしだ、ナナの死のきっかけでもある、ナナの売り飛ばしの謂れは、ナナが客を選り好みするせいである。これは売春事業者(ヒモ)的には歩留まりの悪いという事であるが、ナナからすれば嫌いな客はとらない美学である。ナナである事は路上ビジネス的にも、それを必要悪と黙許するフランス国の公娼制度的にも反りが合わない。
 他人を演じるために自分を盛り立てる力技が追い付かず身体を元手の娼婦として世間に身を晒したナナだが、家庭の奥で家族と近隣に囲われて息絶える想像より、この路上で見知らぬ男たちとの交わりにこそ活路を覚えたに違いない。

 娼婦など、我が身ひとつ金を稼いで役者として売り出す、それだけの身過ぎ世過ぎでよかったのかもしれない。ところが元亭主以外、男はみんな富の源泉である筈がひとりだけ老師ブリス・パランはナナの歩く道を照らしてしまう。
 それが何を意味するかナナには恐らく一寸先の事、それが持つ、死に至るナナ的社会病原性については分かるまい。しかし、道を照らされると迂闊に娼婦の歩を進めなくなる。男のツラが金に見えた昨日と違い、もう自分をプロモートする金づるとは別の、自分はナナで、望むように生きていきたい筈が明日の夢のために今日、好きでもない男に自分を明け渡すのか?と自問してしまうのだ。
 この、「明日の自分」に敵対する挑戦が、ジャンプアップしようにもその足掛かりさえない世間の最底辺で生きている事を忘れさせてしまう。この問いを発見して、自らを問い直すところに余計な男は邪魔でしかないのだ。

 あのあした、老師が語った、歩く事のメカニズムを通して初めて「ものをおもった」男の死に向き合う数日の話は、実は「初めてものおもった」ところに実はなく、重たい岩盤を支えながら死に至る残りの時間に全記憶を傾けながらあらゆる事を「ものおもう」事、そのなかで感じる何かが啓ける錯覚とおもいを深めるほど手掛かりが無くなる事のもどかしさを誰にも問いかけられない不毛さ、そこにこそ実がある。
 ところで、「愛」の言葉も出てくるがこれは無意味である。愛はそれこそ娼婦などが金に換算もすれば、それを拠り所に誰かなんぞは命まで投げ出してしまう。こんな取り付きようのない言葉にかかずらってはいけない。それなら、街中で困ってそうな人に助けがいるかい?と問うてみればいい。そのように考える前に体が動けばよほど上出来だろうが、そのさなか自分が助けなかった、見過ごした人は何なのか、今助けている事もそれに応じている自分も何なのか問う方がいい。

 誰にも我が問いが伝わらない、尋ねる先を求め得なくなる前に我が身の在り方を問い直せと師は告げているが、ナナにはそれが聞こえたろうか?
 ここに娼婦としてのナナの死が、ひいては夢に生きること、つまりこの数年ナナを惑わせてきた「夢」での挫折の兆候が現れ、その先でナナは自分を何と捉え直すのか、新しい問いかけがやがて生まれてくる。

 いや、そんな鬼に笑われるような事ではない。「夢」が実はナナを今将に殺しつつある事の切迫を命題として捉えつつあったのだ。
 ついにこの世で居場所がなくなったナナがその問いを前に敗死したことは確かである。冷然とシェードアウトする画面がナナのいなくなった世間の続きが警察の登場、遺族探しと連なる事を我々は知っているが、ナナが最後に抱懐した問いも全て我々に移植され、物語はすでに我々のものである。この事を監督は投げかけるのだ。
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