テテレスタイ

アガサとイシュタルの呪いのテテレスタイのネタバレレビュー・内容・結末

アガサとイシュタルの呪い(2019年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

オリエンタルな地イラクが舞台なんだけど、オリエンタルさがほとんど感じられなくて残念。

主人公(アガサ)にはストーリーの選択権をほとんど与えていなくて、時間と共に勝手にストーリーが進んでいって、気が付いたらエンディングロールが流れているパターン。現地でのラブロマンスもいまいち。何を見せたい映画なのか判然としない。

でも、ストーリーを頭の中で整理すると、この映画のストーリーが言いたいことはなんとなくわかる。人間は自分と正反対なものを求める、ただし、正反対なものを混ぜると危険なこともあるってことかなって思う。



オリエンタルなイラクの荒野はアガサが住んでいる都会とは正反対で、小説家であるアガサが恋したマックスは肉体労働をする若者でアガサと違って頭が硬い。小説家はひらめきが命だから頭は柔らかくなければいけないけど、マックスは小さな銃弾を防ぐくらい頭蓋骨が硬かった。そして、アガサが求めていたロマンスは、それまで書いてきた推理小説とは正反対。

人間と動物という対比もストーリーに盛り込まれていて、映画の終盤では遺跡と石油の対比に行き着いた。人類の歴史が遺跡で、生物(動物)の歴史が石油。ところが人類の発展には石油の方が貢献するという皮肉。逆転現象。

肝臓(liver)と川(river)の対比では、字面では明らかに川の方が綺麗で清涼だ。しかし、猿の肝臓が化学実験につながったのに対して、チグリス川の神話では謎の白い色の液体へとつながって、グロテスクだった肝臓の方がまだましな話となり、逆転している。

そしてアガサ自身ロマンスへの憧れを抑えきれなくなって、それまで理性有利だったのに、本能と理性のバランスが本能側に傾き逆転したことで、この映画のストーリーが開始している。

冒頭のハトのジョークがそのいい例で、
"Put that away or I'll chop it off,"
"feed it to the pigeons, and watch you bleed to death in the gutter."

put that away の that を日本語字幕では銃と訳していた。銃から出るのは弾丸もしれないし、白い色の液体かもしれない。前者なら推理小説だけど、後者ならラブロマンスになる。下世話な話だけど、アガサの心の中のパッションの状態がうかがい知れるジョークになっている。

そしてイラクへ行く前に「狐になった奥様」をアガサは読んでいた。夫人が狐に変身しちゃうお話。動物になることで徐々に人間性を失うから悲劇なんだろうけど、逆に真実の愛がそこにあるようにも読めてしまうという感想がググると出てくる。だから、今と違う自分になることで、今の自分にはないものを得られるかもしれないという幻想をアガサは抱いたことになる。

ならばこの映画に殺人事件は必要だったのかという疑問が生まれる。正直なところ事件の推理は面白くなかった。それでもファンはアガサに推理小説を求めている。アガサが推理小説に乗り気じゃなくてもファンはそんなことは知ったことではないw

医学の博士号を持つ若い女性パールには、本来ならばもっと自分に合った仕事が与えられるべきだったが、実際には雑用しかしていなかった。だから隠れて研究をするために不正に加担して、そしてそれが原因で殺人事件へとつながってしまった。

この話から得られる教訓は、正反対のものを混ぜるときには注意が必要で、手順を間違えると大変なことが起こるってことだろう。アガサとマックスが遺跡で交じり合いを始めたときダイナマイトが放り込まれた。その場が湿っていたから爆発はしなかったけど、危うく死ぬところだった。

化学実験と同じで、混ぜ合わせるときは手順が重要で、間違えると大事故が発生する危険がある。推理小説とラブロマンス小説も混ぜたら危険。でも、アガサとマックスは結婚して幸せになった。何が危険で何が安全かは事前には分かりにくい。経験則に頼ることが多く、長い経験を持つ人ほど慎重になりがち。まだ若い心が残っていたアガサは幸運だった。

アガサに命の危険があったように、化学も危険と隣り合わせだ。そして、理性的な仕事の発展には、理性と正反対な位置にある情熱が必要で、燃えると熱を発する石油を情熱の隠喩としてこの映画は用いている。

化学者は化学の法則を選ぶ権利を持っていない。化学の法則はただそこに存在するだけだ。化学者を主人公に置き換え、化学の法則をストーリーに置き換えると、(前述した)主人公がストーリーの選択権を持っていないことに対応する。

アガサは運命的にマックスと出会い、アガサもマックスも相手を拒絶する選択権を持っていなかった。愛も化学もこの映画のストーリーも全て決定論の世界にあった。そうなるべくしてそうなる世界。小説は究極的には決定論の世界なのかもしれない。どれだけ美しい法則や運命を描けるかが小説家の力量といったところだろうか。

でも、法則や運命で主人公を縛りすぎると閉塞感が生じてしまうし、あるいは、主人公に選択権を与えないと達成感が生まれない。この映画が割とそうだった。なので法則や運命を緩めて奇跡を演出することになるけど、やりすぎると安っぽくなる。だから、緩めず焦燥感を煽ることも。小説家に要求されるスキルのハードルってけっこう高いなって思う。

ところで、アガサ以外の登場人物もなんとなく犯人に目星がついていた。でもその理由をうまく説明できなかった。直感的にはあいつが犯人だと分かっても、それを筋立てて説明することは難しい。筋立てて説明するのは小説家の得意とするところだ。みんなが何となくそうだと分かっているのにうまく説明できないことを筋立ててうまく説明する能力。アガサはそういう能力も卓越していたってことなんだろうね。