レインウォッチャー

ジャム DJAMのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

ジャム DJAM(2017年製作の映画)
4.0
ギリシャのレスボス島からエーゲ海を渡り、半島を縦断してトルコのイスタンブールへ。魂に歌と踊りを備えた女・ジャムの旅。

いわゆる「行って帰ってくる話」で、おつかいロードムービー。ジャム(D・パタキア)の目的は、実家の観光船を修理するために必要な部品(ロッド)を取りに行くこと。
道中ではさまざまな人と出会う。笑う人、泣く人。留まる人、出ていく人。旧友。ボランティアのためトルコに来たが、彼氏に身ぐるみ盗まれてしまったアヴリル(M・カヨン)とは旅の連れになる。彼らにはそれぞれの苦しみ、嘆きがあるのだけれど、誰もが呑んで・歌い明かす。

常に背景にあるのは、トルコ・ギリシャ間の長年に渡る難民 / 移民問題だ。
特に、ジャムの故郷レスボス島はその《勝手口》ともいえる港であり、近年は緊張を強いられている土地。難民側の生活事情も劣悪だったが、地元は地元で治安が悪化し、観光産業はダメージを受けた。島は歴史深く、輝く海に囲まれながらも、海岸には難民が残した船や救命具が物言わぬ死骸のように山となって残されている。

加えて、ギリシャ国内の経済危機の影響も描かれている。民衆側から見た大手銀行の仕打ちを、ジャムや家族は強く非難する。(どこか、過去のファシストと重ねるような向きすらある。)
銀行側は「仕事をしているだけ」と言うし、事実そうとしか言いようもないのだと思うけれど、上述の難民問題との組み合わせもあって民衆側からすれば泣きっ面に蜂で、「本当に困ってるときに何もしてくれなかった」という意識が強いのだろう。この意識は、フランスからホイホイやって来て痛い目を見たアヴリルの視点を通して、他のEU国にも向けられているのかもしれない。

これらの問題に厳しく目を向ける映画だが、窮屈さはない。夜の深さにぞくっとする一方、笑える場面、美しい場面も多くある。それはジャムというキャラクターの華やかさ・軽やかさと、何より音楽の存在に救われている。
旅情を誘う民族楽器と微分音の響き、終わることのない踊りのリズムのループ、といった音楽自体の彩りはもちろんのこととして、その成り立ちにポイントがあるように思う。

劇中でジャムたちが歌う音楽はレンベーティカといい、割と近代(第一次大戦後の頃)から起こったムーブメント。《ギリシャのブルース》とも呼ばれるように、歌の内容は労働歌的な側面もある。
そして、ジャムも「ギリシャとトルコの融合」と言っているように、この音楽もまたかつての両国の摩擦・混合から生まれたもの。使われている楽器を見ても、名称が少しずつ違えど、見た目や機能の面でいわゆるアラブ音楽の楽器とよく似ている。どんな音楽にもいえることだけれど、歴史とそこに生きた人々の息吹が琥珀のように凝縮されているものだ。

つまり、現代がいかに難しい状況にあったとして、この歌は、踊りは、夜は、両国がなければ生まれ得なかったのだと…言っているように理解したし、そこにある可能性を信じられる映画なのだと思った。
それをまさに体現する人物がジャムだ。冒頭、映画は彼女がどこかの金網フェンスに沿って歌い踊る様子から幕を開ける。フェンスは国境・境界を想起させるものであり、彼女は音楽によって越境する。また、このイメージはおつかいの目的に集約されている。家族の船を《再起動》させるための部品は、トルコの職人でなければ作れない。

当然、辛くても音楽があれば何とかなるさ!なんてお気楽な結論に落ち着けることはできないけれど、それでもジャムたちは歌い、海へ出る。真の希望には、覚悟が必要。まさに、かつてこの国で語られた神話にあった『パンドラの箱』のように…最後に一粒残るものを見捨てない、これは覚悟の歌なのだ。