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マリとユリのTnTのネタバレレビュー・内容・結末

マリとユリ(1977年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

 マリが揺れる、良心と非行の間で。ユリに惹かれ、挑発される。人間なんて、優しさなんてラララ〜(吉田拓郎ボイス)。

 ほんとは見ない予定だったけど、前作「ナイン・マンス」のユリを演じたリリ・モノリをもう1回見たくて見た。しかもまたユリという役名を授けられ、旦那もまたヤン・ノヴィツキが再びヤーノシュの役名で演じている(というか、ノヴィツキは監督の夫だったんだとか。カサヴェテスみたいな作品と、カサヴェテスみたいな旦那)。しかし、今作は「なんであんたたち別れないの?」と疑問に思われるような”痛カワ”カップルを好演している。ユリはクソガキ感溢れておりどこか少年のような風貌でさえあるし(揶揄う際、お尻を見せて舌を出したりするぐらいにはクソガキ笑)、ヤーノシュはアルコール依存症だ。このカップルを見たかったがための映画とも言えて、その点で主人公マリはほぼ観客そのものだろう。「馬鹿ね…」と逐一気にかけながらも、どこかそんな二人を羨ましくも思う。マリは工場の女子寮の寮母で、良心の塊みたいな人である。だからこそ、自分に無い部分に惹かれる。

 そもそも、良心とはいえ最初からユリには甘々で違和感があった。それが気遣いとかではない、もっとこじれた愛情だと次第に判明していく。そもそもボーイッシュな感じが同性愛的なニュアンスで、「アダプション」のアンナのような魅力がある。喧々してるのに、時折泣きついてくる、マリは揺さぶられまくる(唐突すぎるシャワーシーンもまたあざとい)。また「旦那と何回寝てんの?」と茶化されるシチュエーションも「アダプション」のそれだった。こういう性的なことのマウントとか揶揄いってホモソーシャルだけじゃ無いんだなぁ…。というか、自分の人間関係の中にもこういうクソガキだけど人懐っこい後輩がいたので、どこにでもいるんだなぁと感慨深く思った。

 マールタ作品では珍しく、女性が怒りに身を任せるシーンがある(予告でも見られる窓割りシーン)。マリはユリにたぶらかされ、知らぬ男とキスし、それを夫に話すことで嫉妬させてご無沙汰だった情事に浸ろうとするも、夫は途中でやめてしまう。その後も関係はうまくいかず、マリは、酒を飲んで醜態をさらしたと翌日夫にめちゃくちゃ言われる。家にいろ、みっともないと散々悪口を浴びせられ、マリはついにブチ切れる。その後、ヤーノシュと会った際、ついに、自分が今まで一度も夫を愛していなかったし、向こうも愛してくれなかったのだと悟る。マールタ作品の中では珍しく結婚が長く続いた存在だったが、中身は空虚だった。

 マールタ作品における時計の音というのは、神経質で何かピリつかせるものがある。それは、家庭に閉じ込められてきた女性たちがいやというほど聞いてきたあの時計の秒針の音に他ならないからだ。ヤーノシュが酔っ払って買ってきた時計というのは、そうした女性を縛るものの象徴であるように思える。今作、やや唐突な事柄が多く、この時計もそうだがシャワーシーンも前後関係関係なく挿入されている。自然な流れに入るやや不自然が、妙なリアリティに与みしている。

 「怖いのは事実だ」「孤独よ」
 このやりとりが終わったあと、ヤーノシュは病院へ、そしてマリはお見舞いに行き再開する。マリはそこで目の当たりにするのは”事実”だった。アルコール依存をなくすために吐き気を催さなければならないという、あのショック療法のむごたらしさ。そして、狂ったように罵り、偽善者とヤーノシュはマリを追い詰める。ここには彼の孤独もあり、奇しくも二つの恐怖に彼が侵されていることになる。その後、怖くて面会できなかったユリに、「心配いらないわ」と言うと、マリに同伴していた娘に「嘘だ!」と告げ口されてしまう。青く寒々しい宿舎に向かって走る三人と響き渡る「嘘だ!」。そうして映画が終わる。いつもちょっと先が気になるというところで、幕切れ、いい塩梅に。マリの怖れた"事実"は露呈し、それゆえに"孤独"を迎える可能性があるという最悪のエンドを予感させながら。マールタ作品は、あっさりと描かれるのに内実地獄のようなシチュエーションである。
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