イホウジン

裁かるゝジャンヌのイホウジンのレビュー・感想・評価

裁かるゝジャンヌ(1928年製作の映画)
4.3
男社会の醜さ愚かさ

90年以上前の今作が不朽の名作たらしめているのは、なにも映像美に限った話ではない。同時に際立つのは、現代のフェミニズムにも通ずる男性性の暴力を顕在化させるストーリーだ。正直なところ今作をそっくりそのままリメイクしても何の遜色もないような内容だし、逆に今作を未だ“新しいもの”として受け入れてしまう社会のジェンダー平等の遅れを憂うものでもある。残念ながら昨今までの映画業界が歩んだ道は、今作からの退行だったと言われても致し方ない程である。
今作における「悪」は、女性の活躍をよく思わない男性権力層の存在である。確かに映画内では裁判や死刑執行までの手続き,信仰の有無の確認など、普遍的とされる規範にのっとった作業は行われていた。しかし結局それを扱うのは人間であり、それ故に否が応でもその人の主観が入り込んでしまうという重大な問題が生じてしまうのである。これは決定を複数人で議論することである程度の客観性を確保できるが、その集団が特定の思想や価値観に基づくものであった場合、その側面のバイアスが抜けることはない。今作の理不尽の構造的な要因はここにある。いくら形式的な制度,儀礼が整備されていても、それを決める人間が宗教的な正当性を口実に権力の座に居座ろうとする男共であれば、そりゃジェンダーにバイアスが掛かるのも当然だ。そしてその権力の愚かさをジャンヌが悟ったとき、物語はクライマックスへと向かう。
今作で見事なのは、ジャンヌの死刑を単なる死としてではなく栄誉ある殉教として描いた点だ。彼女の劇中における思考や感情の揺れの原因を100%映画内の男たちの愚かさ醜さに委ねて、彼女の行動を絶対に正しいものとして描いたのである。当然自ら死を選ぶということは自己犠牲でありこの規範化はよろしくないが、それでも現代にありがちな「被害者にも責任はある」的な議論に陥らなかった所は評価されなければならない。
今作のような「加害-被害」の明確な二分を男女間の問題で描く映画はそう多くないし、社会でもそういう議論が交わされることは(特に日本では)あまりない。映画ではどうしても双方に“歩み寄り”をしようとするあまり、被害と加害の境界が不明瞭になったり赦しをテーマとした内容になったりする。現実の社会でも加害者への報道と同等もしくはそれ以上に被害者へ注目したニュースが流れるし、いざ加害と被害を明確に分けて問題に参画しようとすると「正義中毒」呼ばわりである。しかし、世の中に法律が存在する以上、それを逸脱することは犯罪であり悪である。この前提が置き去りにされた議論ばかりの現代社会や映画の世界は、結局は「持つ者」が勝ち続ける世界になってしまう。多様性を尊重し公正公平が遵守される社会を目指すためには、それを拒む人間,集団への具体的な行動が欠かせないように思う。

当然映像も素晴らしい。クローズアップされる登場人物たちの表情は物語に深い活力をもたらす。だが、この面ばかりが紋切り型に注目される今作のレビューには少し違和感を覚える。別に感想なんて個々人の自由だが、だからこそもっと内容への言及がなされるレビューを見たい気持ちが強まるばかりである。
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