すぎもry

スターダストのすぎもryのネタバレレビュー・内容・結末

スターダスト(2020年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

 ボウイの曲が使えない制約がある中で、『スターダスト』は、「伝記映画とは何か」という問いに一つの答えを提示することに成功している。

 偶然か必然か、ジョニー・フリンのビジュアルや動きが、ボウイにあまり似ていない点が素晴らしい。ボウイの伝記、と銘打ってはいるものの、ボウイの曲がないこと、主演俳優が本人に似ていないことが、スクリーンに描かれるボウイを、観客自身のボウイ像から遠ざける。あくまでも、あなたの心の中のボウイ、あなたが自己化してしまったボウイと、スクリーンのボウイは別物だと言っているように聞こえる。

 『スターダスト』は、表象されるのは自分とは異なる他者、あるいは他者の絶対性を踏まえた上で、特定の人物にアプローチしている。つまり、そこに表現された人物像は、あくまでも作り手が創造した人物像だ、という明確な線引きの上に映画が成り立っているのだ。

 私はボウイには特に思い入れが強いから、ボウイ本人を超えたストーリーを作り、それがボウイ本人であり、また私なのだ、と捉えてしまう。しかし、この映画は私に警告する。ボウイとジギースターダストが別の人格であるように、ボウイはボウイ、あなたはあなただ、と。

 『スターダスト』は、ボウイの完全再現の潔い諦めが根底にある。このキッパリとした諦めは、ボウイの曲が使えないこと、ジョニーフリンがボウイに似ていないことに支えられている。お陰で、観客は伝記映画に描かれた人物が表象する、他者性に触れることができるのではないだろうか。伝記映画は、描かれる人物を通じて、心の中の自己化してしまった人物像を引き剥がし、絶対的な他者性に向き合わせる可能性を秘める。

 そもそも、ボウイのオリジナルの曲が聞きたいと言うのなら、家に帰って聴けば(笑)と思う。
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