みにつまされる話し。
さやさんと、有楽町でみた。
自分探し、といったらいいのか悪いのか、なにものにかはなりたいけど、それをつかみきれず、もやもやとしながら生きる女性の数年間の話し。
よくわかると共感もしたし、だからこそ主人公のユリアにも、それを見ている自分にも厳しくもなるし、じゃあ自分と比べてユリアがんばってるじゃん、ともおもえる映画。
1〜12章、序章、終章からなる。
主人公の印象がどんどん変わっていく。
自分の生活を変えたいともがいている。
じゃあ、男を変えたら、ひとりになったら、それで解決するの?とも思うけど。
ストップモーションのところ、時が止まった=社会的なところからはずれている、シーン、幸せでもあり、怖い部分でもあった。
ユリアが走っているシーンは、パリ13区でサックスしたあと駆けているシーンのようだった。
じゆう。
マンスプレイニング、
ウーマンスプレイニング
こどもいるいない、
自分のために相手を利用する?
相手と自分の関係性とは?
でとユリアが偉いのは、ちゃんと話し合っていたこと、目の前の現実から逃げないこと。
どうにかしようともがいていること。
亡くなる前のアクセルを撮影した。
あのシーンよかったな。
それで、自分も写真家への道をふんぎる。
アクセルに嫉妬する、あせりとか、人生の主人公になれない感じとか、浮気相手といて、自分が自分らしくあれるけど、アートとか大切なことは語り合えない感じとか、「50才になってもコーヒーいれてるの?」って言っちゃう感じとか。めちゃ、最悪。
でもそんな自分もたしかにいる。
いやな部分での共感。
死にゆく元彼に
「わたしは、本当にいい母親になれると思った?」的なことや
「本当にわたしとの間に子どもをほしいと思った?」とかいって
「困難なときでも君なら立ち向かえる」的なことや
「僕が君にしてあげられなかったことは、君に自信をつけてあげられなかったこと」
とか言わせちゃう。
どっちもどっち。
マンスプレイニング。
すれ違い。
ノルウェイのまち、避暑地、きれいだった。光も。
そして、部屋からの風景も、どの家も愛おしかった。生活があったなあ。と思い返す。
死ぬ前にアクセルが言ったこと。
ぼくは、僕がみた映画やコミック、音楽によってできている。物質。買い物。それらの時間の積み重ねでしかない。過去ばかり振り返っている。
そして、アクセルが死ぬ前に言っていた、「自分は買い物に行って、そこで手にとって、選んでみてきたものでできている。物質主義だ」的な発言も思い出していた。
女性蔑視的なコミックを書いていると最初から言っていたけど、彼の言動からはそれがまったくといっていいほどみられなかった。(とはいえ、すぐに説明したがる?というのがマンスプレイニング??)人格とアートは別という議論をしていた。つくるものをどうとるか問題。アートならそれを言ってもいいのか問題。そういうつもりじゃなくてもそうととられる問題。
いろんな不自由さ、自由さを感じた。