まさか

わたしは最悪。のまさかのネタバレレビュー・内容・結末

わたしは最悪。(2021年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

以下は完全にネタバレです。これから観たいと思っている人は読まないでくださいね。いちど観た人と一緒に作品について振り返るためのメモです。


映画史に残るような大作ではない。数年も経てば記憶の底に沈んでしまうかもしれない。とは言え、かなりユニークな作品である。ユリヤ役のレナーテ・レインスヴェの美貌と綺麗な裸に目が釘付けになるけれど、妙に身につまされるところもあって看過できない。

主人公のユリヤは30歳になって、自分がまだ何者にもなれていないことに焦りを感じている。コミック作家として人気を集める恋人のアクセルとの間に壁を感じ、次第に距離を取るようになる。現代人に特有の、解決の糸口が見当たらない、輪郭が曖昧な悩みについての物語。こういう作品はあまり観たことがなかった。テーマはとても今日的で、今まで無かったのが不思議なくらい。

初めから終わりまで、まるで自分を見ているようだった。彼女のように誇るべき美貌も美しい身体も明晰な頭脳も持ち合わせていないし、そもそも性別が違う。自分は30歳の若さなど遥か昔に置き忘れてきた初老の男だ。にもかかわらず、ユリヤを赤の他人とは思えなかった。

本人も告白しているが、彼女は常に新しいもの、新しい人に関心が移り変わって、ひと所に落ち着くことがない。優秀な成績を武器に医学部に進んだが、興味が心理学に移って専攻を変え、それにも飽きて写真家になろうと決心し、初めからうまくいくはずはないと思ったのか、書店でアルバイトをすることにした。

ついつい浮気症な部分が顔を覗かせて、刹那的な冒険に乗り出してしまうから、どの恋人ともそう長くは続かない。いや、恋人との関係が不安定になった時に、別の人のことが気になり始めるのかもしれない。いずれにしても気が多いのは確かだ。文才はあるようだが、だからといって専念するほどに情熱を注いでいるわけではない。

30歳は立派な大人である。しかし彼女はいつまでも大人になりきれない。自分探しの旅の途中で宙ぶらりんになっている。未だに情熱を注げる仕事が見つからない。ましてや子供を持つことなど到底考えられない。自分には母親なんてつとまらないと思っている。

病魔に侵され、死を待つばかりのかつての恋人アクセルを病院に見舞ったくせに、自分がうっかり妊娠してしまった悩みを訴えて、不治の病に犯された彼の口から慰めの言葉が滑り出すのを期待するような人だ。いつも行き当たりばったりで、人生を計画的に考えることを無意識に拒んでいる。

これはまさに自分ではないか。還暦を過ぎてなお大人の実感がない。ついぞ大人にならないまま生を終えるような気さえする。そんなわたしは最悪なのだろうか? ユリヤや自分のような人間は特殊なのだろうか? そうではないだろう。国や文化の違いにかかわらず、現代の社会は迷える大人たちで満ち溢れている(に違いない)。珍しくないからこそ、この映画が成立するのだ。

作品の舞台はノルウェーの首都オスロだが、日本でも北米でもヨーロッパの他の国々でも事情は変わるまい。自分の周囲には、若いうちに子供を産み、しっかり子育てをこなしながら、仕事もきちんとできる優秀な女性たちが大勢いる。だから誰もがユリヤのようだと言うつもりはない。しかし自分には彼女を責めることはできない。

女に生まれたとして、自信をもって子供を産み育てることができるか、と問われればノーと言うしかない。自分の時間を犠牲にして、睡眠を妨害されながら、時には仕事を中断されながら、頑張って子供を育て上げるなどというウルトラCは無理だ。

パートナーとの関係もしかり。同居する相手に誠実であろうとすればするほど、次第に意見の相違が抜き差しならないものになってゆく。人と人との関係は、あまり突き詰めない方がうまくいくと得心したのは50歳も過ぎてからのことである。

30歳のユリヤに、充実した仕事をしながらきちんと子育てもして、なおかつ人間関係を円滑にコントロールするよう求めることができる立派な大人など、いるのだろうか。

原題はThe Worst Person in the Worldだが、もちろんこれは逆説的なタイトルである。ユリヤが世界最悪だとしたら、僕も同じように最悪だ。

ここまで映画の主題に関して、自分に引きつけて分析したので小難しい話になったかもしれないが、作品自体は決して難しくはない。激しい意見のぶつかり合いや、深い哀しみに沈むシーンもあるが、時に軽やかで、かなりユーモラスで、恋人と楽しそうにじゃれ合うユリヤのロマンティックなシーンもたっぷりある。

彼女は下ネタが好きなのか、美しい瞳に茶目っ気を宿して平然とエロ話を連発するだけでなく、出会ったばかりの男(アイヴィン。アクセルと別れた後に恋人になる男)をトイレに連れ込み、互いのpeeを見せ合うといったヤバイ遊びに興じて笑い転げるという変態的な側面も見せる。この辺り、決して軽くはないメインテーマとのバランスが絶妙で、最後まで見飽きることがなかった。

忘れてならないのは、アクセルに別れ話を切り出そうとするその朝、時間を止めてアイヴィンに会いに行くシーンの素晴らしさだ。オスロの街の全ての人々や車や信号機の動きが止まった中を、喜びに満ちた表情で駆け抜けるユリヤの姿は、抱きしめたくなるほどチャーミングだった。街を見下ろす丘のベンチで2人が睦み合うところも微笑ましい。

時間を止めるというSF的な手法は過去の映画でも幾度となく使われてきたが、本作ではCGではなくアナログで撮影されたらしい。鑑賞後に知ったのだが、もういちど観直してみたい。

ちなみに主演のレナーテ・レインスヴェはこの作品でカンヌ国際映画祭女優賞を受賞したそうだが、これまで目立った出演作がなく、本作が映画初主演という。これからが楽しみな俳優さんだ。

20年後、30年後に、この作品が世界の映画史に残るものだと評価されるかどうかはわからないが、自分の将来に漠然と不安を抱いている若い人たちに、少しだけ救いを与えてくれる小さな宝石のような作品だと思った。
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