晴れない空の降らない雨

アリスとテレスのまぼろし工場の晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

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久しぶりに岡田麿里の関わった作品観たけど、相変わらず岡田麿里だった。特に終盤は岡田麿里100%ジュースのシャワーを浴びさせられる。大抵の人はそうではないかと思うが、だいぶ胸焼けした。

といって本作に新たに看取できそうな要素がないかというと、そうとも限らない。

それに関しては後述するが、本作はそんなに支持を広げられないだろう。岡田の露悪要素というか、意表を突く仕掛けは以前より不快なものになっていないか。青春もので最後は感動させに来る作品にしてはキャラへの感情移入がしづらいのも厳しい。往年の青春ものほど支持は広がらなそうだ。

ところで最近、でもないけど、日本のアニメは作画がんばるときに手足をバタバタさせすぎな気がする。例えば勢いづいてよろめいたときとか、とにかく余韻の動作が正直うるさい。このところ全然アニメ観ていないからめちゃくちゃ的外れなこと言っていたらすまん。

美術監督は往年のP.A.WORKS作品でお馴染みの東地和生で、期待通り背景は非常によかった。ラストの廃墟なんて気合い入れすぎ。




以下ネタバレあり。




■成長 vs ただの変化
 まず、主人公たちがあの世界に取り残されたままの終結に意外性を感じた。当初本作は所謂「行きて帰りし物語」に収まりそうに見えたし、実際に五実にとってはそういう物語だった。「季節は巡らず誰も年を取らない」という設定からして、この舞台が意味するものは「成熟拒否」であり、「そこからの脱出=成長」という話だろうと容易に推測できる。
 しかし終盤にかけて、どうやら五実以外の登場人物は誰ももとの世界に戻れないらしいと判明し、観客は終着点を見失う。端からみれば時間的にも空間的にも隔絶した、停滞そのものの世界にとどまりながら、なおも主人公たちは「自分たちが変化していける」と自覚する。リニアな時間経過に沿った「成長」から、拡散的で目的の定まっていない「変化」へ。この認識の転換が物語の決着である。
 もっとも、考え直してみると実に岡田麿里らしいオチではある。これまで岡田が脚本してきた作品も、衰退気味の地方を舞台にしながら外部への志向性が極めて微弱だった。本作にしても、「地元経済を支えてきた製鉄所の崩壊」という本作の舞台設定に、衰退途上国としての日本(の地方)のメタファーという側面があることは明白だ。ある意味で本作は、その内向きの志向性を明確に言語化したものといえる。「閉塞感のなかでどう生きるか」という問いに答えようとした、と解釈しても穿ちすぎではないだろう。


■二重化された作品
 主人公(正宗)たちにとっては上記のような悟りに至るまでのストーリーであった反面、外部からの招かれざる客である五実にとっては古典的な「行きて帰りし成長譚」として、本作は二重化されている。
 この二重化は、初期の岡田脚本を観てきた人ならすぐに了解できる手口だろう。要するに本作の裏主人公として五実がいる。正直こちらのラインに関しては不足気味に感じられたが、岡田も自覚していたからエピローグで補ったのではないか。何にせよ、舞台である「まぼろしの世界」の意味づけも、先述したように二重化されている。
 この方面では岡田のやり方はお馴染みのもので、ロリィな少女を失恋させて成長させている。しかし、そこに意外なやり方でエレクトラコンプレックスを取り込んでいる点が興味深い(振り返れば過去の作品に予兆はあった)。やっていることはドストレートに「幼児期の終わり」だが、あまりに愚直すぎてかえって新鮮というか。エレクトラコンプレックス自体あまりフィクション化されないので、ありそうでなかった発想だ。『君たちはどう生きるか』と見事に照応している奇妙な偶然も含めて面白い。
 
 ただし、岡田の力点はどちらかといえば母サイドに置かれている(つまり岡田の主眼はあくまで主人公たち「とどまる側」にある)。主人公の母や叔父のセリフにあった「いいお母さん」役割からの解放が、彼らの将来については不明だが、本作のヒロインに起こる。ここは岡田特有のフェミ的側面かもしれない(『さよならの朝に~』を彷彿させる)。

 それにしても衝撃的な消え方をした園部さんに、何のフォローもないどころか同級生達からも即忘れられて可哀想だった。切り捨てると決めた脇役には容赦ないのもまた岡田流かな。