kyoyababa

ナスターシャ 〜ドストエフスキー「白痴」よりのkyoyababaのレビュー・感想・評価

5.0
非の打ち所が無い傑作。ムイシュキンとラゴージンの二人の会話劇に徹し、また、米川正夫の翻訳に忠実な台詞回しでの舞台作品を映像化したもので、かつアンジェイ・ワイダというポーランドの映画監督によるもの、という、あらゆる点において奇矯な、そして特別な作品である。

黒澤明の『白痴』は、ナスターシャを「那須妙子(なすたえこ)」、舞台を聖ペテルスブルクから札幌に置き換えるなどして物語の映像化を試みた、確かにこちらも名作ではあったが、あくまでもいわゆる物語映画であった。他方で、この作品は、完全に「ロシア文学」を、忠実に、実験的に映像化し、そしてその実験に完全に成功してしまった作品である。この映像作品は紛れもなくムイシュキン=ラゴージン(と、二人に内在するナスターシャ)の意味の再解釈であり、舞台演劇に対するラディカルな挑戦だ。

挑戦とは、すなわち、原作『白痴』のおおまかなストーリーベースの把握を鑑賞者に委ねていたり──前提知識の無い状態では、この映画はひどく退屈な、意味不明なものにすら見えてしまうだろう──、行ったり来たりする時間軸のせいで極端に難解な構成となっている脚本だったり、殊に、米川独特の言い回しをそのまま映像に乗せているところであるとか、ロシア正教がいわゆる《リーチノスチ──『個我』とも訳される、個人や人格に関する概念──》にどのように影響しているか、といった描写の、映像の分析的試み。

単に「坂東玉三郎が女形として美しいロシア人女性を演じるらしい」といったエンターテインメント性を求めて観てしまっていては面食らう。劇中で彼は「一人二役」を演じるどころか、二重人格的に《変身》するのだ(本当の意味で)。そこで我々は、「役者が演じている」という映画(舞台)のメタ構造を通じて、すでに不在になってしまったはずのナスターシャの存在を知る。

ともかく、坂東玉三郎と永島敏行の主役ふたりの演技があまりにも秀逸で、そして前述の《二重人格的変身》と、それぞれ異なるカメラワークでリフレインする台詞回しのシーンは白眉であり、私はこれまで米川の翻訳を忌避──亀山郁男や望月哲男といった現代の翻訳者がいるのだから、彼らを読むのがよかろう、という拒絶──していたが、日本のロシア文学が持っている《あの雰囲気》はまさしく、米川世代の文学者によって築かれたもので、実はそれが存在感の強い《故郷》として根を張っていたのだ、と気付かされたのである。
kyoyababa

kyoyababa